アドレナリンと感覚麻酔 

第三章 第十一話

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 足を踏み入れるとそこは、見たこともないような景色が広がっていた。

 ずぶ濡れの自分が入っていい場所ではない――――、率直にそう思った。玄関に入っただけでも圧倒的だった。広くて綺麗な、清潔感のある白でまとめられた玄関。自分の身体からポタポタと床に落ちる水滴が場違いで、聖月は必死になって持ってきたタオルでその場所を拭く。そんなことをしていたら、「そこまでしなくても大丈夫だよ」と宗祐に言われてしまった。

 宗祐に呼ばれ聖月は濡れた足を極力床に触れないように長い廊下を進んでいった。

「…おぉ…」

 つま先立ちの状態でリビングに入ると、あまりの広さと綺麗さに聖月は感嘆を吐く。置いてある机も、ソファも、全てが高級そうだ。紺の床に白でまとめられた家具はとても映えていた。天井も大きく、高く、一人で暮らすには広すぎる場所だった。必要最低限の家具しか置いていないので、さらに広く見える。

 大きな二つの窓に、雨が打ちつけられているのが分かる。だが防音がしっかりしているのか、雨音はあまり聞こえてこない。遠くでドドド…という音が響いているだけだ。綺麗な窓からは大きな庭が見える。今は夜で雨なのであまり分からないがきっと素晴らしい庭が広がっているのだろう。

 どこにいればいいか分からない聖月が、立ちすくんでいると、いつの間にか宗祐が目の前にいた。

「う、ぁ」

 頭に感じた突然の感触に、聖月は目を瞑る。

「早く拭かないと風邪を引いてしまうから」

 そう優しい口調で宗祐が濡れた鼠のような聖月を直接タオルで拭いてくれている。ふかふかのタオルの感触に頭をぐしゃぐしゃにかき回され、聖月はされるがままになってしまう。

 ―――俺、お客様に何させてんだ―――っ。

 自分のやるべきことを思い出し、慌てて聖月は宗祐の腕を掴む。

「俺、自分でできます…っ、羽山様もびしょびしょじゃないですかっ、拭かないと風邪ひいちゃいますよ」

「…―――」

 聖月の言葉に宗祐は目を丸くする。髪が濡れているから、オールバックが崩れ、前髪がありいつもの宗祐とは違った雰囲気が出ていた。いつもの優しい威厳のある紳士ではなく、さらに若々しいどこか影のある青年に見えた。聖月はその彼の顔をマジマジと見てから、思わず見惚れてしまった。

 腕を掴んでいる事に気づき、聖月は慌てて手を離す。触れた手がかぁっと熱くなった。

 二人に妙な空気が生まれていた。それを破ったのは宗祐の言葉だった。

「私が今日キミを呼んだんだから、拭くのは当然だろう?」

 鋭い目を細められ、聖月はドキッとした。何でこんなにドキッとしてしまうのだろう。聖月は今すぐに宗祐から逃げ出したい気持ちに襲われる。宗祐に見られていると思うと緊張し、身体が動かなくなってしまう。

「羽山様は…、俺のお客様なのでこんな事しなくて大丈夫です」

「…強情だな、セイくんは。キミは今日は私の来客なんだから、気にしなくていいって言ってるだろう?」

 何度も言わせないでくれ、と言われてしまうと聖月は頷くしかない。

「…、は、はい」

 いつもと違う冷たい声に背中がゾクリと震えた。ほんの少しだけ低い声音。きっと初めて会った時には気付かなかった、宗祐の変化。

 ―――あの人、他の男娼館で出禁になってんだってよ―――あの人、男娼を半殺しにしてたらしいぜ?―――

 どうしてか蒼の言葉を思い出してしまい、首を小さく振る。最近言葉ばかり思い出してし待っている気がする。憂鬱な気分になった。

「くしゅんっ」

 静寂な部屋に響いたのは聖月のくしゃみだった。どうやら雨で冷えてしまったらしい。

「お風呂に入った方がいい。今から準備してくるから少し待ってて」

 立ち上がった宗祐に聖月は慌てて引き留める。

「えっ?! だ、大丈夫ですっ、もうお風呂には入ってきたのでッ」

「…そう?」

 ―――嘘を吐いてしまった。

 お風呂になんて入ってきていないのに。恥ずかしくて、つい嘘を吐いた。心配そうに見つめる目の前の人の視線に耐えられず聖月は目線を下へ移す。お風呂に入って温まったほうが身体にいい事は聖月も分かる。だが、お風呂に入るという事はつまり―――…。

 覚悟は決まっていたはずなのに。どうして、口は嘘を吐いてしまうのだろう。

「セイくん」

 ふいに伸びた手。

「あ―――」

 ―――触れられる。思わず目を瞑り身体を硬直させ、聖月はその感触を待った。だが時間が経っても、触れられる感触がせず、聖月は不思議に思い瞼を恐る恐る開ける。いつの間にか目の前にあったはずの宗祐の手が下ろされ、宗祐の目が聖月を見つめていた。

 見つめられた聖月は瞬きを繰り返す。真っ直ぐな視線が下を見た。そしてそれと同時に口角が上がる。

「やっぱり入ってきた方がいい。…セイくんには何もしないから、大丈夫だよ」

「…ッ」

 宗祐は紳士的な笑みを浮かべていた。うっとりするような綺麗な笑みだった。優しい声。聖月の瞳には宗祐は嘘を吐いているようには見えない。先程見せたほんの少しの冷たい声なんて、忘れてしまいそうな程。

 ―――何もしないって、本当に?

 聖月は前も宗祐にそう言われた事を思い出した。そしてあの時も今と同じように―――疑心暗鬼で彼を見ていた。だが、今聖月の心は揺れていた。疑いとは違う感情が、心の中で暴れ回っている。

 ―――どうしてだろう。こんなに胸が痛いのは。

「…どうして」

 痛みの原因を知りたくて声を出してしまう。だが、言ってしまってからしまった、と気づき思わず手で口を覆う。宗祐にそんな様子の聖月を見て、くすっと声を上げた。

「…キミは普段は無表情で何を考えているかよく分からないけれど、案外分かり易いね」

 楽しそうに笑う宗祐に、胸が締め付けられる。聖月は自分の変化に困惑していた。宗祐が口を開くたびに耳を覆いたくなる。

 その言葉の先を知ってしまったら何かが壊れてしまいそうで怖かった。ドクドクと鳴り響く心臓と、噴き出す汗を押し込めようとする。

「…どうして、か。…知りたいかい?」

「―――」

 含みのある言い方だった。聖月は何も言えなかった。知りたくない、そう言いたいの言葉が出てこない。ここまで聞こえないはずの雨が、遠くで聞こえてくる気がした。

「…ずっと黙っていたけど、私はディメントで出禁になってるんだ。当時のナンバー持ちを殺しそうになってしまったから」

 瞬間、窓から閃光の光に包まれた。近くで雷が落ちたらしく、小さな振動が伝わる。

「ッ」

 頭に衝撃が走る。天地がひっくり返ったようだった。聞いた刹那、頭がくらりとした。耳鳴りが響く。人は予想外の事が起こると、その場でよろめいてしまうらしい。聖月はその場で倒れてしまいそうになるのを何とか堪える。

 ―――聞きたくない。そんな事、聞きたくない。どうしてそんな聖月が考えていた悪夢みたいなことを、この人が言っているのだろう。聖月は混乱の中にいた。

「うそだ」

 聖月の上げた声は唸り声のような、必死な声だった。自分からこんな、悲壮感のある声が出るなんて思ってもみなかった。

「…ウソじゃない、本当の事だ。他の仲間に聞いてみるといい、私の悪評が広がっているだろうし」

 自嘲気味に話す宗祐の言葉は、聖月には到底信じられないものだった。

「うそだっ」

 聖月は宗祐の胸にしがみ付いて叫んだ。その絶叫は、蒼に掴みかかった時よりも大きく、そして必死なものだった。聖月は今にも死にそうで必死な表情で、宗祐の服を揺さぶる。それに合わせて宗祐の身体が揺れていた。まるで振り子のように、宗祐は聖月の行動を受け入れていた。

 ―――蒼の言うような事をどうして彼自身が語っているの?

 倒錯した状況に、聖月はただ宗祐にしがみ付き「うそだ」と言い続けることしか出来ない。

 まるで自分が自分でなくなってしまうようだった。蒼の言葉は本当だったというのか? 蒼は嘘は言わないと思っていたし、自分の中でも「もしかしたら」という気持ちはあった。だが、本人から聞かされるとそんなはずはないと身体と心が拒否する。

「キミを指名したのは、DVDを見てキミを壊したいと思ったからだ」

「―――ッ」

 ―――嘘だ。

 パキン、パキン、と何かが、心のどこかが壊れていく。宗祐の言葉は信じていたもの全てが全部なくなってしまいそうで。聖月はグチャグチャになった頭の中で、宗祐の言葉を拒否する。信じたくない。彼は嘘を言っているんだ。前のように直ぐに冗談だよって、言うはずなのに、宗祐はいつまでたっても言ってこない。

 頭の中で蒼が笑っていた。騙されてるんだよお前、可哀想になぁ――――…。

 初めて会った時、カッコよくて、ディメントの客だと思えない程いい人だと思った。十夜を傷つけ、自分を責めていた聖月にホテルの夜景を見せてくれた。ベットの中で何もせず励ましてくれた。いつも、気さくに話しかけてきてくれた。パーティで、橘から助けてもらった。初めて会った日から彼からは『優しさ』しか貰っていない。

 だがそれは違うんだ、と目の前の人自身が語っていた。

 宗祐が聖月の震える手に触れる。そして、強く掴むと聖月を自身から無理やり引きはがした。

「あっ…ぅ」

 その強さに聖月は痛みを訴える声を上げる。宗祐は目を細め、そして早口で言い切った。

「…やっぱりキミはここには居ちゃダメだ。早く帰りなさい。送っていくよ、料金はきちんと払うから心配しないでいい」

 優しい声と裏腹に、言葉は聖月を拒絶する。早く帰りなさい、と聖月の心を崖の淵へ追い込んだ。宗祐の『料金』と言う言葉で彼とは客と男娼の関係だったと再認識した。線引きをされた、と思う。それが普通なのに、胸が張り裂けそうに痛む。聖月はバラバラになった心を何とか振り絞り、声をあげる。

「…ッ、い、イヤ…です」

 どうして自分がそう言ったのか分からない。だが、今帰ったらもう二度と宗祐とは会えないような気がした。…―――それだけは嫌だった。だが聖月の懇願に対して宗祐は、今まで見たこともない冷たい表情で言い切った。

「じゃあ今直ぐにヤっても文句はないな?壊れるまで鞭打って、縛り上げて、キミが泣いて懇願したってやめないから。死にそうになっても助けないし、従順になるまで犯し続けてもいいってことだよな」

「――――っ」

 彼は冷たく、聞いたことのない横暴な口調で酷い言葉を吐く。

 それは、聖月には考えられない宗祐の姿だった。聖月は目の前が急に闇に包まれたような絶望感に包まれ、自然と涙を流していた。

 

 
 

 

 

   

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