アドレナリンと感覚麻酔 第三章 第十二話

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「…っ」

 その言葉に、聖月は頭の中で衛が言った言葉が浮かんだ。

 ―――ミツがその人の事をどれだけ許せるかって話じゃないかな?

 つまりはそういう事なんだろう。信じたい、大切にしたい。自分が宗祐に対して「許す」なんて感情を抱いていいのかは分からない。その資格があるのかも、それすらも分からないぐらいの、彼と聖月は「客と男娼」だけの関係性だ。

 ―――相手は「セイ」の本名も知らないのに。

「一回会ってみたらどうですか?」

「え?」

 聖月は驚き、顔を上げた。黒川は真っすぐにこちらを見ていた。そして彼は口を開く。

「それで…会って伝えたらいいと思います。分からないってことと、セイさんの気持ち……」

「気持ち…を、伝える…」

 このよく分からないという気持ちを伝える。それは聖月にとって勇気のいる行為だった。だが、黒川の言う通り「会う」しか解決方法はないのだろう。きっと自分は、会って彼と会話したかったのだ。そう考えた聖月の耳朶に、宝条の声が響いた。

「…俺はいいと思うけどねぇ、会うってこと自体は。まあ、すごく危険と隣り合わせだと思うけど…」

 軽い調子で言ったが、言っている言葉は重かった。そんな宝条の言葉に心臓が跳ねる。聖月の不安を、黒川は声を震わして表してくれた。

「危険って…」

「だって、近づかない方がいいって忠告されているのに、近づくことがまず危険でしょ?」

「そ、そうかもしれないですけど…」

 黒川は宝条の言葉で視線をウロウロとさせた。聖月も同じく視線を動かす。

「そもそも、セイくんって、その羽山…さんの連絡先とか知ってるの? 知らないから、ここまで来たんじゃないの?」

 どうして宝条は確信めいたことを言ってのけるのだろう。まるでエスパーのように聖月の状況を言い当てた。聖月は立ちすくし、項垂れる。

「う゛…そ、そ、そうです…知らないです…」

「えっ、じゃあ、どうやって会うんですか?」

 それなら会えっこないじゃないですか。そう黒川は言いたげだった。聖月は「その通りです」と身体を小さくさせる。そんな聖月の落ち込んだ様子に黒川は身体をソワソワさせている。なんていい人なんだろう…。聖月がそう思い、顔を上げた瞬間目の前の宝条と目が合う。

 そして、彼は聖月に救いの一手を差し伸べた。

「…それだったら、羽山さんの事知ってる人に聞いて回るしかないんじゃないのかなぁ?」

 ちなみに俺は知らないんだけどね、と宝条は申し訳なさそうに言った。

 宝条の言葉は聖月に衝撃を与えた。今の自分では絶対に思いつかないアドバイスだったからだ。

「あっ」

 そういわれて、俺は頭の中にある一人の男が浮かんだ。聖月の大きな声に二人は目を丸くした。

「あんまり…頼りたくはなかったんですけど、多分きっと…彼の事を知っている人間がいます。き、聞いてきますっ、すいません長居しちゃって…」

 何度も聖月は二人に頭を下げた。二人には感謝してもしきれない。こうして仕事中なのに、何にも『ライブラ』に関係のない自分を置いてくれた。話しかけてきてくれて、助けてくれた。感謝してもしきれない。

 本当に頼りたくはないけれど、奴ならきっと知っている。聖月にはそんな確信があった。今度こそ身支度を整える聖月に二人は綺麗な笑みを浮かべている。それは先程今にも死んでしまいそうな表情だった聖月がどこか活き活きとしていたからだ。

 生きようとする意志が今の聖月にはあった。だから、二人は笑みを浮かべる。

 黒川が雨の中声をかけたのは、お客様だと思ったからだったからだが、それにもう一つの理由がある。聖月が…雨の中でびしょびしょになってオロオロとしている青年が今にも消えてしまいそうだったからだ。

 だからこそ、今の聖月の様子を見て、黒川はほっと息を吐く。

「また、来てください」

 そして、そう言える。彼はきっと来てくれる。また、生きてここに帰ってきてくれる。

 黒川の笑みを見て、聖月は頷く。宝条はそんな彼らを見て、幸せそうに眼を細めた。

 

◇◇◇◇

 

 

「やっぱり早まったかな、俺…」

 聖月はドアの前で立って、そう呟いた。本当は来たくなかった。だけれど、ここで逃げてはいけない。

 聖月が今立っている前にあるドアは宗祐がディメントで出禁になった過去を持つという情報を愉しそうに教えてくれた蒼の部屋のものだ。男娼館『ライブラ』を後にした聖月は寮の自分の部屋に荷物を置いた後、特に連絡もせず奴の部屋の前に来ていた。

 今の聖月は手ぶらであり、身一つでかなり無防備な状況だった。蒼と話すのは『アレ』以来なので、妙に緊張する。首を絞めてしまった事は謝っても謝り切れない。

「………」

 あの時謝っていなかったのは、自分の身を案じてだが、今回は謝っておかないといけない。そして、その後に…と、頭の中で様々なシミュレーションをしていた聖月に、身体に衝撃が走る。

「まぁた、首を絞めに来たのかよセ・イ・ちゃ・ん」

「ッ」

 声で蒼だと分かり身体を硬直させる。耳元に囁く低い声、後ろを振り向かなくても、不躾に肩に乗る両手で分かってしまう。

「あの時は、ごめん……、謝ってもしきれないことをした…」

 聖月ははっきりした声で謝罪をする。嫌味を言われている事は分かっている。だが、謝りたいと思った。

「ふはっ、お前謝るためにわざわざ俺の部屋に来たのか? まあ、とりあえず中に入れよ。ここに来たってことは分かってんだろ?」

 耳に舌をいられて、身体が震えた。やはり、感覚が消えない。ああ、困った―――。聖月は自分の身体の『秘密』が起こらない事にガッカリする。顔が見えないが、聖月には彼が笑っていることが分かっていた。

 その通りで蒼は実に愉しそうに笑っていた。聖月の思い通り、身体を求めて笑っているのだ。

「いや、こ、ここでいい…、あと蒼に、聞きたいことがあって…」

「へえ、羽山様の事?」

 ―――てか、謝るよりそっちが聞きたいんじゃないの?

 そういわれて、聖月はさらに硬直させる。蒼は何だってお見通しらしい。右の耳をじゅるじゅると吸われてゾワゾワとし、身体が動く。くすぐったいが、ここで抵抗したらいけない。

「う、ん…っ、くっ…」

 頷く聖月が珍しいのか、蒼はさらに興奮したように耳を吸った。

「随分素直じゃん? ああ、そっかセイちゃん耳吸われるの好きなんだ〜?」

「ん、ぅうっ」

 蒼の舌が、耳朶に入り込む。気持ち悪いはずなのに、舌遣いが上手く気持ちがいい。聖月は自分に嫌気がさしていた。どうして気持ちよくなってしまっているのだろう。前と同じように感覚がなくならない。体は気持ちよいのに、心は否定する。鳥肌が立ち、身体が震えた。

「羽山様のいる場所…、し、知らない…?」

 シミュレーションはしていたが、かなり唐突に切り出してしまった。

「はぁ? んぐ―――ッ」

 突然すぎたのだろう、蒼は目を見開き、舌を引っ込めさせた。聖月はその隙を突き無理やり蒼を引きはがし、向かい合わせになる。向かい合わせになった蒼の顔は驚きに満ちていた。

「お前さ、出禁になった話聞いてたよな? もしかして忘れてんのか? ショック過ぎて馬鹿になったんじゃねえの。いやお前は元からバカだけど」

「俺…バカだけど、それは覚えてる。他の所でも聞いた。……蒼の言ってることは本当だった」

 聖月はそう言って項垂れた。対照的に蒼は吠える。

「はあ? わざわざ調べたのかよっ、それで本当だって知って何で会おうとしてんだよっ」

 蒼は聖月の告白を聞いて思ったよりも驚いていた。いつもの蒼じゃないように見えた。こんな蒼は、聖月が友達なんかじゃないと言っていた時以来だった。飄々として、何もかもを馬鹿にしていて、この世界の選ばれしものだという風格がある蒼ではなかった。

「会ったら…分かる気がして…」

 聖月は曖昧に濁した。いや、曖昧ではない。聖月の気持ちのまま蒼に吐露したのだ。それがよくなったのかもしれない。その言葉を放った瞬間、蒼はぶるっと震えて聖月を睨みつけた。一気に空気が変わった。

「はあ?! 何が分かるんだよっ、ただ優しく抱いてもらっただけで堕ちんじゃねえよっ」

「う゛うっ」

 勢いよく胸倉を掴まれて、首が苦しくなる。夜で決して明るくない廊下で聖月の呻きが響いた。

 ―――デジャヴ。

 頭の中でその単語が蘇る。あの時と一緒だ。聖月が宗祐の事を言われて激高して首を絞めたように、蒼の頭の中も怒りで満ちたのだろう。聖月は蒼の顔を間近に見てゾッとした。蒼に怒りを向けられたことはあったが、今回の怒りはその中でも一番だ。

 綺麗な蒼の顔が歪み、怒りに満ちている。…殺される。そんな本能的な恐怖が頭の中を覆う。

「客の嘘まみれの愛のあるセックスで騙されんじゃねえっ、俺が抱いてやった事忘れやがってッ」

「う、うっ、く、るしっ…」

 激高した蒼は聖月が苦しんでいる事なんて分かっていない。それほど夢の中で抱いた聖月が『最高』だったのか。息が出来ずじたばたとしていた聖月が本格的に死を覚悟した時、気づいた表情をした。そして、笑みを浮かべる。

「あー…そっか…セイちゃんは優しく抱いてほしいのかぁ…オイ、こっちに来いっ」

「ぐえっ」

 優しい声と罵声を浴びながら、聖月は開いた部屋に投げ込まれた。聖月は混乱の中にいた。蒼が怒っている理由を完全には理解していなかったからだ。玄関先の床は冷たく、衝撃に耐える。痛みに呻く聖月に、ドアが閉まり、鍵がかけられる音が聞こえた。それは絶望を抱くには十分な材料だった。

 下品に笑う蒼はそこにいない。ドアに立ちふさがるのは人が好さそうな好青年の「ソウ」だ。

「鞭で喜ぶ変態なのに優しくされて簡単に堕ちるお前なんて見たくなかったんだけどさぁ…しょうがないなぁ…一回付き合ってやるか…」

 しょうがないなぁ付きやってやると、と聖月の頬に触れ優しく笑いかけている蒼の顔は恐ろしいほど慈愛に満ちていた。

 だが笑みは見ている聖月が背筋が凍るもので、聖月は蒼に聞こうとした自分を恨む他なかった。

 


 

 

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