アドレナリンと感覚麻酔 

第三章 第十話

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 ――――あの大きな手から覗いた昏い色香の表情を思い浮かべると、心がどうしようもなく締め付けられる。

「…ミツ?」

 肩を叩かれて大学の講義をぼんやりと聞いていた青年―――聖月は思考が乱れた。慌てて隣を見ると心配そうに―――いや急かすように聖月を見つめる友人の黒瀬衛(くろせ まもる)がこちらを見つめていた。金髪の鬣(たてがみ)が聖月にとって眩しく映る。

「講義終わったから行こうよ」

「え? あ、あぁ…う、うん」

 衛にそう言われて話していた講義が終わったことを知る。自分のノートを見ると、ミミズがのたくったみたいな酷い字が書かれていた。自分の字だから解読できるが、他の人には見せられるものではない。

 聖月は慌ててノートを閉じ、教科書をまとめるとさっさと椅子から立ち上がって教室から出ようとする衛を追いかけた。

 ―――駄目だ、全然集中できない…。

 聖月は衛と同じく肩を並べて歩きながら、隣に気づかれないほどの小さなため息を漏らす。その理由はわかっている。

「ミツ? 次の教室そっちじゃないけど」

 大きな声をあげて衛が言った。慌てて見渡すと、そのまま右に曲がる廊下を聖月はまっすぐ行こうとしていたところだった。聖月はまったく前が見えていなかったのである。聖月は顔が熱くなるのを感じつつ、慌てて衛に駆け寄った。

 そんな様子の聖月に、衛はため息を吐いている。その顔はあきれていた。

「どうしちゃったわけぇ? 今日いつも以上にぼーっとしてない?」

「…そうかな?」

「そうだよぉ! いつもぼーっとしてるのに、それに磨きがかかってるよ? 全然俺の話聞いてないし」

「講義中に話しかけるのもどうかと思う…」

「ひっどーい! そういうこと普通言う?!」

 だから彼女いないんだよ!と、関係のないことでぷんぷんと怒られてしまった。聖月は衛がわーわーと騒いでいるのとは違うことでため息をついた。

 聖月がぼんやりとしてしまっているのは、自分の体の変化に対してだった。

 先日客である宗祐に触れられた。いつもは感覚がなくなるはずの行為だったはずなのに、あの日は違うものだった。あの自分ではなくなる感覚―――快楽を味わったのは何年ぶりだろう。どうして宗祐に触れられると、長年なかった感覚が呼び起されるのだろう。

 しかも困ったことに、あれから分かったことがある。聖月が帰ってからもう一度感覚を呼び起こそうと、部屋で自分の性器に触れた瞬間だった。聖月はたじろぐ。ない―――。感覚がないのだ。手を動かし、感覚を拾おうとしたが性器は反応するが感覚は一向にやってこない。

 聖月は絶望した。

 普通の人間に戻ったと歓喜したのに、元に戻ってしまった。

 あの熱が沸騰するような感覚は、宗祐のときだけだったのだ。聖月はそのことを知ると、ふとした時に宗祐の顔が思い浮かぶようになってしまった。聖月は理由が知りたかったのだ。どうして宗祐が触れたあのバスローブ姿の触れ合いで感覚が戻ったのか。

 だが一向に考えても答えは出ず―――。結果的に、あの触れ合いから3日たった今でも宗祐の姿ばかり浮かんでしまっている状態が続いている。

「あ、そういえば十夜とは仲直りしたんだよね?」

 いつの間にか目的の教室に移動して、同じ講義を受けるために隣同士に座った衛に問われ聖月は意識を戻す。

「え?」

 衛の言った言葉にどきんと胸が高鳴る。十夜の名前を聞いて、そう言えば彼のこともあったんだ―――と、今まで考える暇もなかった名前を思い浮かべる。

 ――――…今まで、迷惑かけてごめんな。…また友達に戻ってくれるか?

 友人である喜多嶋十夜(きたじま じゅうや)の告白にやっと答えを出したのは一週間ほど前だ。知っていたけどな、と暗い顔からいつも通りの表情に戻った十夜の表情を思い出すと今でも身体が引き裂かれそうになる。

 ―――…聖月のお母さんとお父さん帰ってこないかな……帰ってきたら…すべてがもとに戻るのかな…。

 十夜の悲痛なすすり泣く声が木霊した。

「だから、十夜と仲直りしたんでしょ? 何暗い顔してんの」

「えっ……、あ、あぁ…」

 聖月は視線を彷徨わせて衛の視線から逃れる。衛の純粋な瞳を見るのは今の聖月にとっては毒に近い。聖月は曖昧な言葉で濁し、膝の上でぎゅうっと拳を作った。その手は震えていた。

「何喧嘩してたかわかんないけど、やっと聖月許したんだ? もうギスギスすんのはやめてよね〜、も〜」

 こっちまで気ぃ使わなきゃいけなかったじゃん、と話す衛の顔はどこかホッとしているようにも見えた。

「あはは…ごめん…」

 聖月は乾いた笑いが喉からへばりつくように出てきた。どうやら衛には十夜が聖月を怒らせたと思われていたみたいだ。確かに聖月が十夜を避けていた様子を見てればそう思うのは無理はないのかもしれない。

 だが実際は違う。そのことを否定することが出来ない状況に胸が痛くなる。十夜は何も悪くないのに。悪いのは自分なのに―――。

「何暗い顔してんの!」

 ペシッと肩を叩かれて、なんだか泣きそうになる。元気出してよ、と言葉が声音が雄弁に語っていた。衛の目は純粋で、真っ直ぐだった。隣を見ると何もかも知っているような瞳で、聖月は怖かった。

 そのまま何か追及されるかと思ったが先生が教室に入ってきて、そうなることはなかった。

 その後。講義が終わり今日はもう講義がないので帰ろうとする。正門を出た時、思わぬところから声がかかった。

「聖月」

 聞き慣れた声にドキン、と心臓が鳴り響く。

「十夜ぁ〜」

 耳に衛の甘ったるい声が聞こえた。目の前にはちょうど大学に向かってきた十夜の姿があった。すらっとした長身を引き立てるデニムのズボンと、英字のTシャツを着た十夜はやはり大人の色香のある精悍な顔立ちだった。

 十夜は軽薄そうに笑い―――だが、聖月と目を合わせると優しそうに目を細める。聖月は思わずぎゅっと拳を握った。

「よっ」

 軽く手をあげ、ニコニコと笑う十夜はいたっていつも通りだ。通りがかる人たちに聖月たち3人は注目されていた。衛と十夜は目立つのだ。特に十夜の長身で美形な姿は。

「今から大学ぅ?」

 衛が問うと、十夜は頷く。

「あぁ。ちょっと面倒だよなぁ」

 昼過ぎの登校は面倒だと笑う十夜はいつもと何ら変わらない。

「これから帰る?」

「あ、うん…」

 十夜に問われ、聖月は答える。手汗が滲み視界が歪む。緊張からか、罪悪感からなのか、それすら判断できない。十夜が時計を確認すると、小さく手を挙げて言った。

「じゃあ、俺行くわ。またな」

「じゃぁね〜」

「うん…また」

 十夜は手を振り、正門に向かっていった。それに2人も答える。聖月はぎこちないながらも、十夜と話せたことをほっとした。十夜の姿が見えなくなると、衛が無理やり肩を抱き寄せる。身長が少しだけ聖月のほうが高いが、だいたい同じ身長の彼の顔が間近にあり驚く。

「なんかいつも通りだったねぇ〜。よかったね、ミツ!」

「う…うん…」

 嬉しいねぇ〜、と笑顔で言われ聖月はじわじわと嬉しさが心に染み渡ってきた。

 ―――…戻れないのかな。

 まるで絵空事のように言ったあの十夜の言葉。それを思い出してハッとする。

「十夜……」

 十夜は、元の関係に戻そうとしてくれているのだ。だから今まで避けていたのに告白の答えを境に、今までと同じようにしてくれている。十夜の心境はわからない。だけれど、きっと―――。

 本当の意味で元の関係に戻るのはいつかはわからない。十夜の気持ちの整理もまだ終わっていないだろう。聖月と十夜の心の傷がいつ癒えるのかもまだ分からない。これは二人で一生背負っていく傷なのだろう。だけれど、十夜は聖月を安心させるため、衛の心配を早くなくすため≪いたって普通に≫過ごしているのだ。

 そのことに気づいた聖月は目頭が熱くなる。

 ―――また友達に戻ってくれるか?

 十夜の優しさを思い出し、聖月は目を擦った。そこには大切な友人の十夜の姿が映っていた。

 ――――ありがとう、十夜…ずっと友達でいようね…―――。

 どうか隣の衛にこの涙がバレませんように、と聖月は鼻を啜ったのだった。

 


 

 

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