ンドルフィンと隠し事

12

 

 熱帯夜の空気は美味しくない。

 好紀は外に出るため車のドアを開けた時、そう感じた。考え事をしていた好紀に冷水を浴びせるような冷たい声がかけられる。 

「―――誰? アンタ」

 ヤバイ、マズった―――。

 好紀にそんな後悔の気持ちが湧き上がる。だが後悔しても遅く、自分のやってしまった失敗に目を逸らしたくなる。

「え…俺は、その〜ただの通りすがりって言うか」

 すっとぼけようとしたが、それは相手に罵られる事になり失敗に終わった。

「それ、クミヤの迎えの車でしょ?! しらばっくれるな。アンタ、クミヤの何なの…?!」

 目の前で、綺麗な顔をした金髪の好紀より年上に見える若い男が鬼の形相で好紀を睨みつけている。後ろには、車内で怯えた様子の運転手がちらちらとこちらを見ている。先程、クミヤが終わったという連絡を貰い、高級ホテルの前まで来たまではよかった。

 だが中々、クミヤがやってこない。

 それを不思議に思った好紀が外に出たのがまずかった。

 いつの間にか目の前にバスローブ姿の男が仁王立ちで立っていた。いかにも今まで致してきました―――そんな姿に、眉を顰めたくなる。この様子だと、この男はクミヤの大切なお客様のようだ。クミヤには、熱心な客が多いと聞いていたが、出くわしたのはこれが初めてだった。

 それは、今まで客に見られないようにしてきたからだ。

 客に見られると、誤解が生まれ、色々と面倒な事が多いのだ。好紀はそこそこ美形な顔立ちなので、余計に面倒な事が多い。

 今まで細心の注意をはらいちょうど来るときに、車を送ってきたようだが今回は来るのが少々早かったらしい。

 好紀は人畜無害な笑みを浮かべることを心掛けながら、この目の前の嫉妬に狂う猛獣をどうにか収めようとしていた。

「俺は、クミヤさんのただの同伴ですので、迎えに来ただけですよ」

 微笑み自分の名前を言わずに立場を名乗ったが、どうやらそれがまずかったらしい。男は瞬間湯沸かし器のように、カッとなった。

「同伴〜? どうだかねぇ、俺たちを邪魔しにきたんじゃないの?!」

 これは、随分出来上がってるな―――。

 俺たち。それはこの客とクミヤの事だろう。きっとこの客はクミヤの事を恋人と同等に扱っているタイプの客だ。こういう客が一番面倒だと今までの経験上分かっているので、好紀は今からイヤになる。

 同伴とナンバー2がどうにかなるわけじゃないのに、そんなに怒ることなのだろうか。好紀は純粋に疑問に思う。そこで「そんなはずないだろ」と反論したらさらに事態に火に油を注ぐことになる。どうすればこの男を止めることが出来るのだろう。

 穏便にすましたい好紀を置いて、段々と事態は悪い方へ進む。

「何とか言えよっ」

 男に胸倉を掴まれ、今から自分は殴られると察した。

 ―――顔は嫌だなぁ―――。

 好紀が覚悟を決めて、目を瞑った瞬間だった。

「おい」

 混沌とした中に低い声が響いた。

 まるで時間が止まったようだった。じゃりっ、と砂利が鳴った音が聞こえ好紀は顔を上げる。顔を確認する前に、男が「クミヤぁ!」と嬉しそうに歓喜の声を叫んだ。だがそんな男とは裏腹に、クミヤの声は夏の熱帯夜の空気を一蹴するような凍てついた氷のように冷たいものだった。

「…どこに行ったのかと思ったら」

 暗闇でも分かる、クミヤの美しい顔立ちに浮かぶ冷たい目の前の修羅場にも興味のなさそうな表情。一日ぶりに聞いた男の声は、あまりにも無機質だった。客相手にはちゃんと喋るんだな、と好紀は首が緩むのを感じながらぼんやりと思う。

 男はそんなクミヤの表情が分からない程、彼に陶酔しきっているらしい。いやむしろ、そんな自分に酔っているような―――そんな表情でバスローブ姿でクミヤに擦り寄る。それはどんな娼婦でも敵わない必死な表情だった。

 好紀は首が外され呼吸がしやすくなり、咳を繰り返すしかない。

「ねぇ! コイツ、クミヤの何なの?!」

 コイツと指を刺された瞬間、胸がキュウッと締め付けられた気がした。

「…ただの同伴だよ。―――待ても出来ないのか、このかわい子ちゃんは」

 ふっ…と金髪の男に笑う姿に、ドキッとした。

 ―――ああ、この人ってこうやって客の心を奪うのか。

 スーツ姿の、完璧な男の姿に好紀は圧倒される。客はクミヤの言葉に、うっとりとしている。客の顎に触れたクミヤは、どこか興味のなさそうに男を見ていた。その姿に好紀はゾッとする。その表情を見ていない客は、愛しの男の熱に浮かされるばかりだ。

 好紀はその二人の様子に目が離せないでいた。

「俺の指示なしに、勝手に動いたらダメだっていつも言っているだろ。これ以上こういう事するなら、出禁にするぞ」

「―――っ」

 そっと低く耳元に囁かれた言葉。

 客は震え「いやっ」と、悲鳴を上げてクミヤを抱きしめる。クミヤは背中に手をそっとのせて、さする。好紀には聞こえなかったが、相当な事を言われたことが分かる。クミヤは好紀に目で「いくぞ」と訴えた。好紀は慌てて、ドアを開ける。

「またな」

 普段より10倍も爽やかな挨拶だった。颯爽と立ち去るクミヤに客が甘えた子供のような声を上げる。

「あっ、クミヤァ…」

 客が何か伝えようとしているのが分かったが、好紀は心を鬼にしてドアを閉めた。きっとああなると長くなる。好紀は客の強い視線を感じつつ、ドアを閉めた。好紀がシートベルトを締めたのを確認し、車は発進した。

「いやー、怖かったっすねえ…」

 そう言ってから思わず後ろを向いて、客を見ようとしたがもう見えなくなっていた。好紀は、ほっと息を吐く。

「…」

 好紀の言葉を無視し、クミヤはまた無表情のまま足を組んでいる。ポケットから出したハンカチで、何度もスーツを拭っていた。そこは、先程の客が抱きしめていた場所だ。舌打ちをし、何度も拭いている姿は珍しくて好紀はじっと見ていた。

 先程のクミヤの様子から見て、あの客はいつもああいった感じで面倒なのだろうな、と思ったら思わず笑ってしまう。案外人間らしいところがあると分かり、親近感が湧いた。こんな感情は、彼にとって迷惑なだけだろうが。

 ふふっと、息を殺して笑っていたら、視線を感じた。

 顔を上げると、クミヤがじっとこちらを見据えている。目を細めてじっと見る視線に居心地が悪くて、好紀は頭を掻きながら問う。

「なんですか…?」

「……毎日2時間きちんとしゃぶってんのか?」

「…へっ」

 まさか今ここで言われるとは思わず、好紀は顔を真っ赤にさせた。しゃぶっている―――それは、きっと課題として出されたディルドの事だ。好紀は素っ頓狂な声をあげ、固まったが、すぐに大きく頷いた。

「えーと、1時間毎日しゃぶってます」

「―――」

 その答えが意外だったのだろう。クミヤは目を一瞬丸くした。だがそれは一瞬で、すぐに無表情に戻る。

「…そこは嘘でも、2時間しゃぶってるって言わねえの」

 彼が声を出すなんて―――クミヤが返事をくれるとは思っていなかった。あの運転手も驚いているらしく、ほんの少しだけ運転が荒くなっている。

「…2時間は多かったので、すいません…」

 好紀は素直に白状し頭を下げ謝った。まさかこうやってクミヤに車内で謝るなんて思っていなかった。

「素直な奴」

「へへ…」

 無機質ではあるが、会話が成り立った事に、好紀は興奮を隠せなかった。ずっと車の中でクミヤを見ていたから分かる。無表情ではあるが、彼は笑っていた。金髪の男に見せた偽物の笑みではなく、好紀を馬鹿にした様子だったが愉し気に。

 それからも、好紀は相変わらず独り言を繰り返していたがそこまで苦痛には感じなかった。

 好紀の勘ではあるが、クミヤがきちんと聞いてくれているような気がしたから。今までは聞いてくれなくても、いいと思っていたが、やはり聞いてもらっていると感じると窓を見つめる男対しての独り言も張り切ってしまう。 

 その日の夜、今までの苦労が報われた気がして、嬉しくて布団の中で泣いてしまった。

 久しぶりに見た夢は両親が出てきた。2人は好紀を見て、笑ってくれていた気がした。

 

 

 

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