――――…それにあと半年でオーストラリアに戻るって言っていて
彼女の言葉が、耳元で喚く蠅の音のように、樹の頭の中で鳴り響く。
「噓…ッ」
宮田さんの顔は、まるで幽霊を見るみたいに驚いた顔をしていた。樹はその彼女の表情を見てからやっと自分が席を立ちあがったことが分かった。そして大声をあげて、他の客から訝しげに見られているということを。
樹は血が上って頭がクラクラした身体を、ゆっくりと椅子に預けた。思わぬ彼女の言葉に自分でも気づかないぐらい動揺していたようだ。
樹はぼんやりとだんだんと冷静になっていく頭でただ漠然と、あの時のことを思い出していた。
忘れもしない中学1年生の夏の日。明日が泣きながら、親の仕事の都合でオーストラリアに帰ると言ったあの日。明日が離れたくない、と泣きながら抱き着いてきた。その時のように、樹にとって宮田さんの言葉は全部が作り話な気がした。
あの時と同じだ。あの、信じられなくて、苦しくて、好きな人が届かない場所に行ってしまう、もう会えないのかもしれない――――。そんなどうしようもない、底なしの不安が樹の目の前に広がって蝕んでいくあの感覚。
「…ごめんなさい。…アスさんは、貴方に言ってなかったんですね」
言わないつもりだったのかな、と小さく彼女は項垂れた。
嫌な心臓の音が聞こえた。その心音で目の前の光景がひび割れて、全部が壊れてしまいそうだ。
「私は、彼がオーストラリアに行っても、行かなくても大丈夫なんですが。…」
彼女はしばらく黙った。そして、口を開く。
「きっと、アスさんは、日本に戻る気はないです」
――――きっと、アスさんは、日本に戻る気はないです
頭にトンカチで殴られたような衝撃が樹に走る。宮田さんの震える唇がその言葉の正しさを表していた。
もう、あーちゃんは、日本に戻る気はない――――。
ぐるぐると宮田さんの言葉が脳に回る。時間が経つにつれやっとそのことの意味が理解出来た気がした。理解出来たが、受け入れるかということになると別だ。だが、やはり宮田さんの言葉は、樹にとって信憑性が高いのも事実だ。
明日は、とても頑固だ。ものすごく、頑固だ。一度決めたら、梃子(てこ)でも動かない人なのだ。
だから明日にどんな言葉をかけても、日本にとどまることはしないだろう。
長年傍にいて、好いていた樹なら分かる。
「…そうです…よね」
だって、きっと、原因は自分だ。
樹は言いながら震える身体を抑えることに必死にだった。
―――自分があんなことをしてしまったから。恋人として、付き合ってしまったから。もうそれきり、恋人にならないと言ってしまったから。テーブルに妙な空気が流れる。それを変えたのは、意外にも目の前の女性だった。
「貴方はそれでいいんですか」
「……っ」
いいわけないだろう、なんて叫んでしまいたかった。だが樹にはそんな資格がないことは分かっている。はっきりした彼女の言葉に、樹は否定も肯定も出来なかった。ぎゅっと握った自身の手に気持ちの悪い汗が滲んだ。ズボンで拭い取ろうとした樹に、彼女は畳みかける。
「アスさんはきっと、貴方のことを忘れたくて、逃げ出そうとしてます」
「っ」
マネージャーである宮田さんの言葉は、はっきりとしていた。だから樹は表情も何もかも取り繕うことは出来ない。
「最後の見送り、来てくれますよね」
「…ぅ…」
念を押すように言った彼女の言葉は、確かな圧があった。樹が何も答えないでいると、宮田さんは勢いよく立ち上り、ただ一言言って店から出て行った。
「きっとアスさんは、貴方が居てもいなくてもダメになる…だから、お願い致します」
樹はその言葉を聞いてからも、しばらく動けずに居た。自分は、一体、どうすればいいのだろう。それだけが、樹の中にはあった。最後の残ったココナッツミルクを飲んだが、時間が経ったせいでぬるくて先程よりどこか美味しくなく感じた。窓に透けた空を見上げたら、樹の心のように黒い雲が空を覆っていた。
◇◇◇◇◇◇
樹はそれから、いたって普通の生活を送っていた。あれから変わったと言えば、タスキとアキがイイ感じになってきたということだけだろうか。冬休み中アキのストーカー男が彼女を襲っていたところを、偶然通りかかったタスキがやっつけてくれたらしい。
その時の様子を語る彼女はまさに恋するオトメだった。聞いていてもタスキはカッコよかったから、彼女が惚れてしまうのも仕方がない気がした。
ストーカーがいなくなったことにより、これで樹の恋人役はお役御免となった。
そしてやはり明日からの連絡は来ない。メールを一回だけ送ったが、返信は来なかった。
「樹くん」
「えっ?」
放課後の教室でぼんやりとしていたら、肩を叩かれて驚く。するとそこには、タスキが居た。爽やかな顔をみて、現実に引き戻される。
「一緒に帰えらん?」
「…うん」
ニカッと笑う姿が眩しくて、頷きながら目を細める。カッコイイ容姿のこげ茶に染めてオールバックにしているタスキを見ていると、 本当にカッコいいなぁ…なんて思ってしまう。こんな顔に生まれたかったな、なんてことも考えしまう。
季節は2月。そろそろ進路を決め、3年に進む時期だ。だからかタスキとの会話も今後のことが多くなる。
寒さに手をポケットに突っ込みながら、2人は並んで歩く。赤いマフラーをしているタスキが温かそうで、何もしていない自分と比べ、羨ましく思えた。
「どこに進むか決めた?」
「とりあえず漠然と国際系のほうに進もうかなって…」
タスキの言葉に樹はまだ決めていない進路を言った。
「あ〜、やっぱ樹くんは英語関係の仕事にいくんだ。進学するの?」
「う〜ん…決めてない…悩んでる」
「でもそろそろ進学か就職か決めなくちゃまずいよね」
「マズイ…」
それによってクラスも変わってくるから、樹はそろそろ結論をつけなくちゃいけない。前から考えた通り一流大学のほうへの進学というほうに気持ちは傾いているが、なんとなく踏み切れないのは、明日の姿が思い浮かぶからだ。あと半年もせずに彼は樹を置いて異国の地に立ちだってしまう。
その間自分は勉強だけしていいのだろうか―――。
まだ公式から日本から活動拠点を移すことの発表はないけれど、きっとそろそろ発表されるだろう。
「俺は服飾系に進むからとりあえず進学かなァ」
タスクはほぼ決まっているからあっけからんと言った。
「俺もとりあえず大学に行こうと思うけど…」
うーんと悩んでいる樹に、タスキは肩を叩く。
「まあ、とりあえず進学のほうにして、考えが変わったら就職クラスにすればいいんじゃない? まだ時間はあるし、その時になったら決めればいいよ。それに最近樹くん凄く頑張ってるから進学でも就職でもいい結果だせるって」
「タスキくん…」
タスキにからっと笑って励まされ、樹は胸にじいん…と温かい気持ちが入ってくる。
タスキの言葉に励まされた樹は「そうだよね。そうするよ」と今後のことについて、一つ決断をすることが出来た。そうしてついさっきまでの憂鬱な気分が吹き飛んで、そのあとのタスクとの話を楽しんでできたのだった。
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