溺水支配

 

1

 

 脳天に響く激痛が襲う。

 何度繰りかえされても、慣れるはずもない痛みは心をひどく麻痺させ、何も考えられなくなっていく。どうしてこうなったのだろう、と思うがそれを考える前に次の痛みが骨に響くように打ち込まれる。不可逆的な痛みに、自分は浅くあえぐことしかできない。

 身体の自由を奪われて、今どこにいるのかもわからない。

 ただ、今の自分の世界には一人の男がいる。

 この人に会って、わかったことがある。この世界には、二種類の人間がいる。

 支配される人と、支配する人―――――。

 自分は、前者で―――彼は後者だ――――。

 

『お前は俺の奴隷になれ』

 何か冷たい感触が身体を包み込んでいる。

 そのひんやりとした感触で、だんだんと意識が覚醒していく。

 碓氷 惇人(うすい じゅんと)は自身の異常な姿を見て、今まで感じたことのない恐怖を目の当たりにした。

 そう自分を真上から見下ろす男に言われたのが今覚えば悪夢の始まりだった。自分を見下ろす男は精悍な顔立ちの男だった。低い声は、脳内に響くもので、一瞬何を言われているのか理解できなかった。いや、惇人にとって理解できない内容だった。

 その言葉にも恐怖を感じたが、一番身の危険を感じたのは自分のいる場所と、自身の身なりだった。コンクリートに覆われた古びた4角形の部屋は、見知らぬ部屋だった。窓も一切なく、唯一天井に電球があるだけでどこかの地下牢のようだった。

 そして、気になったのは天井の上のほうにある謎の壁と壁をつなぐ黒い棒の存在だ。まるで物干しざおのようにあり、だがそんなものではないとわかる代物だった。いったいなんであの棒状のものがあるのか惇人には見当がつかない。

 それに、よく見れば天井の隅にカメラがついていた。まるで監視カメラのようなもので、いったいここはどこなのだろうかと恐怖を感じた。

 こんなところにずっといたら、狂ってしまいそうだ。薄暗い牢獄のような部屋は、何かさび付いた匂いがした。まるで、血の匂い―――。

 そして惇人は、自身の置かれている状況がおかしいと気づき震える。惇人は全裸で両手をロープで上に縛られていた。今惇人は冷たいコンクリートの上で寝転がされている。一体なぜ?と疑問がわいたが、そんなこと聞ける雰囲気でもなかった。

 薄暗い部屋には、惇人と上半身裸でなぜかレザーパンツを穿いている体格の良い男がいるだけだった。190センチはあるだろう長身で、細身で170センチない惇人はとても自身が小さい存在になった気分だ。

 そしてその圧倒的なオーラは、まるで王様のようだった。

 ほどよく腹筋も割れており、二の腕だって惇人よりも全然大きいし筋肉質だった。粗野だと思う顔立ちだったが、野性的で男と形容するよりも、雄といったほうが彼には似合っていた。まるでライオンのような威圧感があった。

 体格もよく、研ぎ澄まされた顔立ちはどこかで見た気がしたが、それは薄ぼんやりとして今の惇人には判断つかない。

『ぁ…の…』

 声を上げようとしたが、緊張と、震えと、のどの渇きによるものが混じり合ってひどく弱弱しいものになった。

 冗談ですよね、と言おうとしたが声がでなかった。まるでそんなことを聞いていい状況ではないと、惇人は気づいていたからだ。

 男は、綺麗な笑みを浮かべた。人好きする笑みで、どこか既視感を覚える。それが、どこだったのかも、今の惇人にはあいまいだった。

『俺の紹介が、まだだったな。まあ…さっき会ったんだけど…、覚えてないよな。のちに、混乱した頭が理解すると思うんだが』

 低い声でしゃべる男は、独り言のように言った。

 さっき会っている?

 惇人は、自分を見下ろす男を見上げる。そして、男の次の言葉に完全に思考が停止した。

『俺は饗庭 冬賀。職業は調教師。碓氷 惇人、お前の主人だ』

 饗庭 冬賀(あいば とうが)と名乗った男は、綺麗で不敵な笑みを浮かべた。

 頭が真っ白になる。調教師と聞いて、真っ先に思い浮かんだのは、競馬に出場する馬を育てる人だ。早く走らせるために、鞭を振るい馬を調教する。そして、彼が惇人の主人だという。まったく意味がわからず、ただ瞬きを繰り返す。

『…あの…、俺の…名前…なんで…』

 思わず聞いてしまった。いろいろと疑問が降ってきたが、一番聞きやすい問いかけをした。

『碓氷 惇人、21歳。普段は大学生、H大学に通っている。両親が幼い頃死に、母方の祖父の家で育てられた。一週間前祖父が病死に、天涯孤独の身。友人はほとんどいない。身長は163センチ、体重は…』

 自分の身の上をすらすらと言われて、惇人は身体が固まった。間違いなく、自分の人生とプロフィールだった。

 ただ茫然と見つめていると、冬賀はゆっくりとしゃがんだ。その動作も自信に溢れていた。ただ意味もわからず圧巻された。惇人と、目線を合わせると、いきなり髪に激痛が走る。冬賀に思いきり髪の毛を引っ張られたからだった。

 痛いと、呻くとそれすらも笑った声が聞こえた。

 息のかかる距離いる彼は、怒気を含めた声音で言い放つ。

『どうして知ってんだって顔してんな? お前のことは、なんでも知ってるぞ。お前が、痛みが好きなマゾだってことも』

『な…っ!』

 そんなことない。こんな痛いことが好きなはずがない。

 惇人は、なんとか髪の痛みから逃れようとする。だが、両手をふさがれ、屈強な彼の手から逃れるすべは惇人にはあるはずもなかった。髪の毛を引っ張られる力が強くなり、頭に激痛が走る。あまりの痛みで、涙が浮かぶ。

『やめ…やめて、痛い、いっ……、たすけ、て、ここから…っ、出して…』

 身体をひねらせなんとか逃げようとする。だが、余計に髪の毛に負担がかかりより一層苦痛が襲い掛かる。あまりの痛みで身体がバラバラになりそうだ。

『う゛……ッツ』

 顔をコンクリートの床に打ち付けられ、惇人はうめき声をあげた。口に血の味がした。きっと口の中が切れたのだ。激痛が神経を滅茶苦茶にかき混ぜる。理不尽な暴力に恐怖と、怒りと、いいようのない不安で身体が震えてしょうがなかった。

 冬賀の力の前では、惇人は赤子同然だった。

 ただされるがままの弱い自分に、ただ情けなく泣くことしかできない。

『俺に抵抗したな。お前は俺の奴隷なんだ。歯向かうな』

 言葉の暴力が疲弊した惇人の精神を侵食する。

 奴隷…―――。

 そんなの、おかしい。見ず知らずの男に裸にされて、奴隷になれなんて言われて、こんな密室に閉じ込められて。俺が何をしたというのだ―――惇人は理不尽すぎる暴力にふつふつと怒りがわく。いつの間にか普段の自分からは考えられないほどの大きな声をあげていた。

『ふざけんな! 奴隷ってなんだよ、ここから出せ! 服も返せ! お前のいいなりになんか、なんないからっ』

 惇人は、いったこともない罵声と大声に、せわしなく息を吐く。

 ドクドクと、心臓の音が激しくなる。自分の言ったことに、反省はしていなかった。だが―――。

『くくっ、こんな状況でおとなしいお前が俺に大声をあげるなんて思ってなかったよ』

 にやついた笑い方だった。その蔑む声は、今後の惇人の運命が悪いほうへ向かっている示唆だった。

『…ッングッ』

 突然脳天を抉る痛みが襲う。惇人は、獣が鳴くような声をあげる。

 痛みが背中を中心に蔓延していた。グッと、何か棒状のもので打たれた箇所を押さえつけられた。じくじくとした、激痛が身体に響く。肌を直に打たれる痛みは相当のものだった。のたうちまわりたい痛みだった。はぁ、はぁ、はぁ―――まるで自分が獣になったみたいだ。浅く大きく息をしないと、息ができない。

『明日からやろうと思ったが、お前が≪調教≫されたがってるんだよな。…―――存分にしてやるよ。…おらっ、次はここにしてやる、よっ』

 風を切る音が聞こえた。

『…ッぐっ、ぁ…っ!』

 うつ伏せのまま、また何かで惇人は今度は下腹部を打たれた。声にならない悲鳴が、コンクリートの要塞に響き渡る。精神がおかしくなりそうな激痛だった。

 惇人は見てしまった。冬賀が持っているのは、一本鞭だ。長い鞭で、到底人に使う代物じゃないだろうと畏怖を抱く。本当に冬賀は『調教師』なのだと、本能的に惇人は感じた。それほどに、打つときの力が容赦ない。

 これ以上、痛みを感じたくなくて必死に惇人は逃げようとする。

『や、やめ……』

 これから何度も打たれたら、死んでしまう。

 生命の危機を感じ、なんとか身体を動かそうとするが、それを冬賀が拒む。

『おい、逃げるなよ。さっきの威勢はどうしたんだ?』

『あ、いっ……ッ』

 背中を、直接冬賀の靴で思い切り踏まれた。体重をかけられて、内臓が圧迫される。吐き気がして、どこもかしこも痛くて、もう早く解放されたかった。

 惇人は涙を流しながら懇願する。

『お、お願い…します…、もう、うたない、で…』

 涙とよだれでぐちゃぐちゃになった顔で、惇人は懇願する。もうプライドなんて、とうになくなっていた。あるのは、恐怖と痛みから解放されたいという想いだけだった。涙の濡れた目で見上げた冬賀は美しい貌をしていた。この人当たりのよさそうな綺麗な人が、こんなことをするなんて信じられなかった。

 手にはいまだに鞭があった。恐怖で震えた。

 綺麗な笑みを浮かべて冬賀は、死刑宣告をする。

『何奴隷がお願いしてんだよ。…あぁ…お前の汚い泣き顔そそるなぁ。もっと、歪めてやりたい』

 うっとりとした顔をされて、惇人は絶望する。

 この人は、聞いてくれないだと知ってしまった。知りたくなかった。

『…そ、…そんな…お…れ…ッ…ぎっ、』

 楽しそうに手をあげると、冬賀の鞭は容赦なく襲ってくる。

『あ…、がっ、ん……っ! …ッ、……っ゛』

 何度も、何度も、何度も、身体に火花が飛ぶような痛みが襲う。容赦のないむち打ちが、惇人の背中、下半身を襲う。コンクリートの床に鞭がくるたび打ち付けられる痛みは、やめてくれと叫んでも終わることはなかった。もう精神回路がぐちゃぐちゃになっていく。

 一際耐えられない打ち付けがあり、そこで惇人の意識は閉ざされたのだった。

 

 

 

 

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