「な、なんでいんだよ…」
キーン…と耳鳴りがした。目の前にいるはずもない人間がいるのだ。動揺しないわけがない。
「そりゃぁ…、遊びにきたんだよぉ」
クスクスと笑う悪魔が目の前に居る。遊びに来た、と言った月村の顔は嘘を吐いているようには見えない。
「もう、か、関わるなって言っただろ。忘れたのか」
義孝は震える身体を抑え込み、ドアの前に居座る月村に仁王立ちしそう言い放ち睨みつける。すると月村は綺麗な瞳をニヤリとさせた。それは中学生のままだった。上目遣いのまま言われた言葉の口調は軽薄なモノではあったが、確かな重みがあった。
「忘れるわけないじゃ〜ん」
あんな事されたら、嫌でも思い出すよぉ―――…。
クスクス、クスクス…。
背筋にゾッと悪寒が走る。技をかけたことを彼は忘れていない。その事を思い知らされて義孝は心までも冷え切ったような気がした。また何かされるかもしれない、そんな不安がありつつも、義孝は気を強く持つことにした。
「…どけよ。俺に関わるとロクな目に遭わないんだろ」
義孝は、冷たく言い放つ事に努めて口を動かす。それは動揺を隠すため、震える身体を隠すために他なかった。義孝の虚勢は、殆ど完璧に隠すことが出来た。だが―――。
「だから来たんだよ、クソ野郎」
足に衝撃が入り、義孝は固まる。
月村の普段のイントネーションが消え、冷たい声になっている。それは月村の怒りが満ちている時のサインだと言うことを義孝はよく知っていた。義孝が痛みを感じる脚に目をやると、月村の手によって掴まれていることが分かった。
「―――ッ」
義孝は言いようのない不安に襲われていた。
月村の声、掴まれた足の痛み。義孝が思い切り力任せに蹴れば、きっと簡単に外すことは出来ただろう。だが月村の存在に―――その笑いながらも怒りに満ちた表情を見れば恐怖に竦み行動に移すことが出来ない。
まるで中学生の時に時が遡ってしまったようだ。
この間、もう月村とは決別出来たと思ったのに―――。
義孝は荒い息を吐きながら、言い寄る男に圧倒されていた。
「あの伊勢さんって男もお前が騙したんだろ。あの人、お前の事好きとか言っちゃってさぁ…、馬鹿じゃねぇの? お前も目ぇ覚ませよッ」
目を見開き、そう叫びながら月村は義孝に襲い掛かる。
義孝はふいを突かれ、あっさりとコンクリートで出来た冷たい廊下に押し倒される。月村の表情は常軌を逸していた。掴まれた手の冷たさに、ギョッとする。凍える冷たさの手は長時間外に居たことを物語っていた。
…―――何時間この場所で待っていたのだろう。
月村の自分への執着の深さが底知れぬものに義孝は震えた。
「お前は俺のオモチャだろうが、他に色目使ってんじゃねぇッ」
冷たい秋の風に吹かれた義孝のカサついた頬に、拳がぶつけられる。肌が叩き付けられる衝撃に、義孝のメガネが飛んだ。ガチャン、と悲惨な音がしてメガネがコンクリートに叩き付けられる。
「ぐあっ、…ッ、つ、つきむら…ッ、」
何度も顔を殴られ、義孝は抵抗を強くする。足を動かし、肩を思い切り何度も叩こうとも、月村はビクとも動かない。無我夢中で腹を蹴っても、呻きもしない月村に対して義孝は焦っていた。どうすればいい、このままでは俺は…。
どうすることも出来ない義孝に、更なる試練が襲う。
「…俺のオモチャだってこと、思い知らせてやる」
そう言った月村は義孝のズボンのベルトを緩め始めた。
その光景を見た義孝はギョッとする。
「んっ、グゥ…ッ、や、やめ…ッ」
突然の事に、義孝は身体をよじり抵抗する。だがそれは気休め程度のモノだった。
義孝は下着の中で勃ち上がっている自身の姿を見て唖然とした。どうして―――?。義孝が反応してしまっている自分に対し絶望していると、目の前の悪魔がさらに追い詰めていく。
「あぁ、やっぱり男だったら誰でもいんだなぁ…、なぁ…ココ勃ってんぞ鈴岡ぁ…。オイ、何抵抗してんだよ。ホントきめぇんだよ、こんなに硬くして…」
自分の手によって勃起したものを『気持ち悪い』と言いつつ、月村はさらに勃起させようと下着の上から手を動かす事は止めない。それは矛盾に満ちた行為だった。義孝から言わして貰えばそれは狂気の沙汰だった。この前会った時に本人にも言ったのだが、そう思うならばやらなければいいのだ。
昔から月村はそうだった。義孝に対しキモイ、嫌い、と口では言っているがそう言った行為を止めなかった。関わるのをやめればそれで済む事なのに、それでも義孝に関わりを持ち続ける男だった。
むしろ義孝が反応をしていると、興奮しているように見える。息を荒くし、月村も同様にスーツのズボンの上からでも分かる程勃起をさせている。
―――貴方は、義孝さんの事が好きなんですよね―――。
透が月村に対し言っていた言葉を思い出す。
本当にそうなのだろうか。ずっと月村は、義孝を見続けていた。それは義孝も感じていた事だった。だがそれは『好き』という優しく温かなモノではないような気がした。もし、そうであるのならば…好きであるのならば、こんな風に相手を無理やり抑え込み自分の欲望を満たすための最低な行動をするのだろうか。
そして好きであるのならば、こんな事をしても許されるのだろうか。
義孝はそうは思わない。
沸々と湧く怒りの感情に義孝はいつの間にか身を任せていた。
「さ、触んな…っ」
ガッ、と鈍い音が廊下に響き渡る。
それは義孝が思い切り月村の顔を殴った音だった。先程のお返しだ、と思い切り殴ったので手がジンジンと痺れている。月村は呆然とした顔をさせ、鼻から鼻血を垂らしている。その爽快感に酔っていられたのは一瞬だった。すぐさま、月村の顔が変化する。それはまさしく般若の顔だった。
「ぃいってえなぁぁぁあ…クソがぁあああ…ッ」
腹の底から呻く声を上げ、月村は義孝の首元を掴んだ。その声は獣の雄叫びのようだった。そしてそのまま光るモノを義孝の太い首筋に突き立てる。
「…ヒッ」
鋭利なカッターナイフ。
義孝はその存在を認識したとたん、頭が真っ白になる。
月村が尻のポケットから出したのは、刃渡り8センチメートル程のカッターナイフだった。業務用の鈍い光を放つそれは義孝に恐怖を植え付けるには十分だった。肌に触れる刃の冷たい感触。少しでも義孝が動いたら切れてしまうだろう。
抵抗を止め一変し恐怖の表情を見せた義孝に、月村は今日一番の愉しそうな笑みを浮かべ声を上げて笑った。
「あ、はははは…ッ、いい気味だなぁ? てめえのこんな顔が見れるとはよぉ! これからさぁ…お前のキモイ顔が見られなくなると思うとよぉ…嬉しくてたまんねぇな…、これが終わったら首元掻っ切ってやるよ。嬉しいだろ? てめぇは大好きな男に抱かれて死ねるんだ…」
月村の言っていることは、狂気に満ちていた。正気ではない。普通の口調で言われたのだから、その恐ろしさは倍増だった。
首元を掻っ切ってやるよ―――…、抱かれて死ねるんだ―――…。
目の前の男が愉しそうに言った言葉がグルグルと回る。
月村の目は本気だった。きっと、本当に義孝を殺すつもりでここで待っていたのだ。本気でなければ何時間もこの寒い外で待っているはずはない。義孝はその事実に打ちのめされる。
「…ッう゛、うぅううッ」
―――嫌だ、嫌だ、死にたくない!
義孝は溢れる涙を抑える事は出来なかった。『死』と言う抗えない本能的な恐怖に義孝は、みっともなく月村の目の前で泣いていた。
「は、はは…ッ、泣いちゃう程死ぬのは怖いか鈴岡ぁ? だけどよぉ、おめぇがぜーんぶ悪いんだ! お前のせいでお前のせいでぇ…」
月村の笑い声が遠くに聞こえる。
今までの事が走馬灯のように蘇る。まだやり残したことがある事も、全て。
ユイの赤ちゃんも一目も見れずに死にたくない。両親にまだ親孝行できていない。連れて行こうと思っていた温泉旅行のパンフレットもまだ見せていない。
―――まだ透とやりたい事が沢山あるのに、ここで死にたくない!
誰か、誰か助けて―――ッ!
義孝が願った瞬間だった。
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