義孝の言葉が、月村の動いている手を止めさせた。少し口角をあげた、眼鏡をかけていない義孝の顔は、清々しい顔つきであった。
「…………はぁ?」
月村は大きく目を開き、素っ頓狂な声を出す。
「首を切って俺を殺したって……、俺はお前のモノにはならない…」
「………………」
月村は、驚いた顔のまま石化した。まるで1+1は2と言われて分からなかった子供の様な顔をしている。それが何だか面白くて、義孝は笑えて来た。月村は身体を震えさせ、義孝の眼鏡をかけていない顔を凝視している。そして口をゆっくりと開いた。
「なに言ってんだてめえ……男に媚びすぎておかしくなったのかよ」
「別に俺はいつも通りだ。…おかしいのはお前だよ」
義孝の言葉に、月村は目を丸くする。義孝の襟を掴むと、そして目を細め、怒気を強めた。緊迫した雰囲気が2人に流れる。
「……自分が何言ってんのか分かってんのか? そんな生意気言うんだったらお前が俺たちにしてくれたこと全部伊勢さんや佐藤に教えても構わねぇんだな?」
そう言って笑った男の顔は歪んでいた。義孝は首を振る。
「…別にいいよ。それで月村の気が済むんだったら、なんだってすればいい」
「……っ」
彼からの脅しの言葉なんて、今の義孝には不思議と怖く感じなかった。きっぱりと言い切ると、心がとても軽くなって、清々しい気持ちになる。そんな義孝の気持ちとは反対に、月村の顔色は段々と悪くなり蒼白していった。
まるで石化した月村に、義孝は冷たく言い放つ。
「驚いた顔をしてないで、早く殺せよ。気持ち悪い顔をした俺の事、ムカつくんだろ? いなくなって、せいせいするんだろ? 早く俺を殺してみせてくれよ…」
―――これでもうお前のオモチャから卒業だ。嬉しいなぁ…―――。
そう言って義孝は憑き物が落ちた晴れやかな笑みを浮かべる。それは月村にとって初めて自分へ向けた笑顔であった。
―――落としてる。
声変わりが終えた低い声の震えた手で机に置かれた消しゴム。その時まじまじと見た、義孝の顔が綺麗で―――あまりに怯えたものだったから。月村はただ、あの時、笑って欲しかっただけなのに。
―――それを自分が壊してしまった。
義孝の笑みは、月村が今まで生きてきた中でどんな言葉よりも物よりもずっと欲しかったもので。
月村の中で何かが弾けて、割れて、壊れた。
―――パキン、パキン、パキン。
頭の中で何かが崩れていく。それは激痛をもたらし、月村に襲いかかる。それは酷く苦しいもので。今までの自分が全てなくなってしまいそうな程、大きすぎる痛みに月村はのたうち回る。
「う…、う゛……あ、ぁ…あ…ああっ゛…」
男が今にも死にそうな獣の呻きを上げたのは、それからすぐのことだった。激痛が走る頭を押さえ、月村は床へ突っ伏した。その顔は涙に濡れていた。義孝はすぐさま月村の腹を蹴り上げ、男の檻から逃げ出す。月村は「あ゛ぁっ」と呻く。腹を蹴った感触が生々しくて、義孝はこれが現実だと思い知らされる。
「イヤだぁ…ぁ゛ああ…ッ」
義孝が透たちの居る方へ駆け出すのを見ると、月村は痛みに呻きながら手を伸ばす。
ふらついた身体で伸ばした手は空を舞い、目的もなく彷徨う。伸ばした手の先に見えるのは、互いの名前を呼び合い、透と抱き合うほっとした自分から逃げ出した義孝の姿だった。それは月村にとって、あってはならないことだった。
「よしたかさんっ」
「伊勢さん…っ」
「―――…ッ」
カシャーン…。カッターナイフがコンクリートに叩き付けられるのと、駆け寄った佐藤が月村を大きく蹴り上げたのはほぼ同時だった。
「あぅぐぁあ゛ああっ」
月村は大きく痛みに叫ぶ。義孝と同じ腹に蹴った佐藤は胸ぐらを掴み、涙で濡れ歪んだ顔をした月村に怒鳴りつけた。
「てめぇっ、自分が何したか分かってんのか?!」
月村は佐藤の怒鳴った声や痛みなんて今は関係なかった。自分から離れた男の方が大切だった。義孝は震える身体を隠そうともせず、透へしがみ付く。その様子を見て、透と義孝が恋人同士だと月村は思い知る。
その光景は月村の心をかき乱し、自分では受け入れられない程悲しみが溢れた。それは月村にとって初めての出来事だった。
「すずおかぁっ」
月村は思わず声を上げていた。瞬間、頬に衝撃が走る。
「てめえっ」
「ウグッ」
ヒリヒリとした痛みで、自分が今殴られたのだと月村は知った。だが、そんな痛みなんて、今の月村にはどうでもよい事だった。それよりも胸を駆け巡るこの悲しみが―――今にも自分が消えてしまいそうなこの感情の方が苦しいものだった。
―――辛い、イヤだ、寂しい。様々な感情が溢れ、零れていく。
「…義孝さん、早く行きましょう」
透が、安心した様子で話しかける。血が出た首元を優しく撫でる姿は慈愛に満ちていた。
「あ、あぁ…」
義孝は透の支えがあって、やっと歩ける状況だった。自分の視界から小さくなる義孝に、月村は恥を捨てさり叫ぶ。
「す…すずおかぁ……行くなよぉっ」
それはまるで子供の泣き声のようだった。切羽詰まった声は、すぐにこの場を去ろうとした義孝でさえも脚を止めさせる程、必死なもので。義孝はこんな様子の月村は今まで見たことがなかった。プライドを捨て去った彼の姿は、小さく今にも消えそうだった。
「月村……」
佐藤も必死な月村の様子に、抑えていた手を緩めさせた。佐藤は怒りの感情が萎み、同情に似た気持ちで月村を見つめる。
「おれをっ………おれを置いていくなぁっ、待ってぇ、今までの事ならあ、謝るよォ…」
グスグスと泣きながらの月村の顔と言葉は幼いものだった。顔は鼻水と涙でグチャグチャになっている。鼻血がこびりついた頬は、真っ赤に腫れていた。
今まで月村が謝る、何て言葉を聞いたのはこの場にはいなかった。
だからこそ、3人は月村の言葉を立ち止まり聞く気になったのかもしれない。
月村はボロボロと涙を流しながら、義孝に謝罪した。
「ご、ご…めん…なさい、ごめんなさいっ、う、うぅ…」
それは男の懺悔にも聞こえた。
きっと『ごめんなさい』と言ったのは久しぶりだったのかもしれない。言葉をたどたどしく噛み、嗚咽をしながら叫ぶ月村は、あの頃には全く想像できない程小さな存在だった。義孝はそんな月村の姿に、思う所はないわけではなかったが、義孝の決意は硬いものだった。
透と視線を合わせ、廊下をゆっくりと歩いていく。飛んで壊れた眼鏡を拾うと、そのスピードを速くする。
「…ま、まってぇ…あ゛ぁっ」
月村が二人を追いかけようと足を動かそうとしたがよろけ転んだ。
顔からコンクリートの床に叩き付けられ、月村は呻く。
「痛いぃ…痛いよぉ…た、助けてすずおか……」
悲痛な叫び声はあまりにか細い。顔を上げた表情は、弱弱しいものだった。服も顔も血や泥で汚れた姿は、まるで昔の義孝のようだった。男は義孝がいなくなることに怯え、哀しみに満ちた顔をしている。
泣きながら、胸を抑え、縮こまる月村の姿。月村の叫びは子供が親に置いていかれ、一人になった時のような悲壮感のある悲痛な叫びだった。それは絶対的な存在があったあの頃では考えられない姿で。
「またな、月村…」
義孝はそう笑って、かつての同級生を置いて光の方へ歩き出した。
夜の帳が満ちた世界は、4人を冷たい風で包んだ。
「…もう全部遅いよ、月村」
佐藤は段々と見えなくなる恋人同士の姿を見つめながら、泣き続ける月村に冷たく言い放つ。
「う…ぅ…うううう……ちくしょお…ちくしょおお…」
月村はおでこをコンクリートの冷たい床に付けて、何度も何度も悔しそうに床を殴っている。その手は血で汚れ、真っ赤に腫れていた。
「…月村、やめろ。そんなことをしたってもう鈴岡はお前の手に届かないよ…」
痛々しく自分を傷つける月村を見ていられなくて、佐藤は無理やり手を掴む。月村の手はゾッとするほど冷たくて、佐藤は違う意味で震えた。月村は、佐藤の行為に暴れ、大きく叫ぶ。
「うるさいっ、さとぉっ、はなせっ、すずおかぁ…ッすずおかああっ、こんなの全部ウソっていってくれよおおおっ、なぁああっ…?! 俺は、俺はぁ…」
俺は、アイツがいなくなって、せいせいするんじゃなかったのかよぉおお…、と涙を流す月村はあまりにも小さかった。
そして顔を上げた月村は絶望の表情をする。自分の前にはもう二人の姿はいなかったからだ。自分を置いて、透と共に歩き出した義孝。それは義孝が月村の支配を拒んだ事を象徴するものだった。
「アイツはもうあの人のモノになっちまったのかよぉ…」
佐藤はまたうずくまり泣き続ける月村にどうすることも出来ず、冷たくなって血塗れになった手を包み込み、慰めに似た行為をすることしか初恋が終わった男には出来なかった。二人の身体は、冷たい風が当たり続けていた。
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