会社から戻ってきたのは19時。ご飯やらお風呂やら明日の準備やらをしていたらあっという間に20時半になっていた。急いで佐藤は月村にスマホでメッセージを送る。
『ごめん、今ご飯とか食べ終わった! いつでも通話OK』
5分ほど経ったころ、スマホが震えた。月村からの着信だった。
『よォ、元気ィ?』
「うん。元気。月村は?」
『ん〜、まぁまぁかなァ〜』
いつも通りの声。月村はだいたい『元気?』が第一声だ。彼の癖のようなものだろう。
『アイツ誰なの?』
「あ…アイツ…?」
『だから、今日の写真撮った奴』
急に何を聞いてくるんだろう―――と思った。佐藤は別に隠す事でもないからと特に気にせず話す。
「メッセでも送ったけど、会社の同僚だって。うち営業部だから。同期なの」
『名前は?』
「名前? 田中(たなか)だけど…」
『なにそれ。偽名か?』
「偽名って…。本名だよ……」
妙に疑ってくる月村に佐藤はため息を吐いた。偽名でも何でもない。正真正銘、佐藤の同期の同い年の男だ。何を気にすることがあるのだろう―――。ベッドに座り直しつつ、月村の声に耳を傾ける。
『何か怪しいなぁ〜。あんな顔しちゃってさぁ』
「いやただのちょっとどう写真に映ってるか分かんなかった俺じゃん。意味わからんし」
『意味わかんねぇならそれでいいけどさぁ。あ、そう言えばこの前の鍋パありがとう。俺からは誘えなかったら良かったわ〜』
「あ、うん…。役に立ったなら良かったけど…」
ドキッとする。月村が言っているのはこの間の義孝と月村と佐藤で行った鍋パーティーの話だ。どうせ断わるだろうなぁ、と義孝にメッセージを送ったがすんなりと通ってしまい思わず『マジかよ』と言ってしまった。金曜日に行われたそれは楽しかった。
月村と義孝はあの一件以来会っていなかった。どうなるだろうと思ったが、別にそこには触れずに2人は会話していた。佐藤は普通を装いながら内心ドキドキしていた。だが特に何も起こらず、佐藤はほっとした。2人共大人になった、という事なのかもしれない。
『お前さぁ、鈴岡の中学の頃の写真飾ってさぁ。そんなに好きなの?』
「は?!」
急に言われて思わず大きな声を出してしまう。
写真――それはリビングに飾ってある中学生時代の柔道部の集合写真の事を言っているのだろう。まさか義孝に指摘されるとは思われずどうして隠していなかったのだろう、とあの時は悔いた。
『お前ら仲いいんだしもっといい写真あっただろ。よりによって集合写真って。ちっちぇじゃん』
「そ、それは…」
だって鈴岡の笑っている写真それしかない―――…とは言えなかった。
義孝は写真映りが悪いのか、撮られるのが嫌いなのか、慣れていないのか―――だいたい仏頂面が多い。無表情でこちらを射貫くように見詰められる写真もあった。だが、その顔を見ているとゾワゾワとした気持ちになるので飾れなかった。
「言っただろ。鈴岡は俺の友達。ただの思い出の写真を飾って何が悪いんだ」
『ふぅん。見つかってあんなに顏真っ赤っかになってたのにぃ?』
「だから、そ、それは…っ!」
あれはそういうのではない。そういうのではないはずなのに―――佐藤はどう言い訳していいのか分からなかった。
『まぁいいけどさぁ。てか、送ってもらえばいいじゃん。鈴岡の顏写真』
「はぁ?! な、なんでそんな事頼まなきゃいけないんだ! だいたい鈴岡は伊勢(いせ)さんと付き合って…ッ」
ドクン、ドクン、と心臓が鳴り響いていた。こんなのただの月村のからかいだ。ただからかって佐藤を笑っているだけ―――そうであるはずなのに、心はどこか心許なかった。佐藤の言葉に月村が「ふぅん」と興味なさげに言った。
『付き合ってるからなんなの? 佐藤はさ、アイツを奪う気はないの?』
う、ば、う。
たった3文字の言葉のに、佐藤は思わずスマホをぎゅっと握りしめた。
「う、奪うって何だよ…。2人は幸せそうに付き合ってるし…、俺はただの友達だし…、何も関係ないだろ…」
『関係あるじゃん。だってお前ってホントはずっと鈴岡の事好きだしぃ』
「違うッ!」
はぁっ、はぁ、はぁ―――。まるで自分の叫び声が別の人の声に聞こえた。
『アハハ、必死じゃんさとぉ。どうせお前もさ、他の奴と一緒で鈴岡の事脳内で犯してたんだろ? 何をいまさら…』
「うるさい! 黙れ! 黙れよ!」
聞きたくない。
そんな妄想なんてしたことがない。想像なんてしたくない。佐藤はぎゅっと目を瞑った。
『ごめんごめん。怒んないでよォ。お前が動揺してるのが可愛くてついからかっちゃっただけだからぁ、ゆるして?』
甘ったるい声だった。まるで好きな子をいじめるいじめっ子みたいな言い分だ。
「…月村は、まだ鈴岡の事好きなんだろ」
だから、言ってやった。佐藤は確信を持って聞いていた。
『アハ、好きって何? アイツはもう俺の事置いていったんだよ。玩具じゃなくなった。俺のもんじゃなくなっちゃった。それだけなんだよぉ、佐藤ォ』
月村は笑っていた。リンゴは赤色なのだと、この世の理を言うように。答えのようで答えになってない言葉を聞いて―――佐藤はまだ月村が義孝が好きなのだと悟る。どうしてかそれに納得している自分も居たが―――ほんの少し傷ついてる自分も居た。
「そうか…。そうだよな…」
スマホを握りしめながら佐藤は頷く。呟きのような佐藤の言葉に、月村は思い出した風に言った。
『あ、好きと言えばさぁ。お前、どんな奴が好み?』
「急にどうした?」
『いいじゃん。参考程度に』
「…そうだなぁ…スレンダーで、背が高くて…何かスポーツとかしてる子。筋肉質な子だといいな」
佐藤の回答を聞いて、月村は噴き出した。
『なんだその好みぃ〜。まぁ、それで見繕ってみる』
「な、何を?」
『今度さぁ、パーティあんだよね。最近セフレ作ってなかったし、選別したくさァ〜』
「せ、セフレ?!」
思わぬ言葉で佐藤は度肝を抜かれる。そう言えば月村はセフレが居るって聞いていた。月村とこうやって付き合うとどれだけ彼が刹那的に生きているのかよく分かる。特定の相手を作らず、身体の関係を楽しむだけの生活。佐藤にはにわかには信じられない事だった。
『ん、そうそう。佐藤の事話したらお前の事が気になった女が居てさぁ。お前恋人いないんだろ? ちょっと付き合ってくれない?』
「ええっ、そんなこと言われても…」
『だめ?』
甘ったるい声。その声を聞いてドキッとする。そんな声で頼まれたら…―――困る。
「分かったよ。行けばいいんだろ。行けば。…その人の事が好きになるかは保証しないけど…」
『うんうん。ありがとう〜。そろそろ皆にお前の事紹介したくてさァ』
「…そうかよ」
月村の言葉が気になったが、気にしないようにする。それから佐藤と月村は色々な話をした。仕事の事やら最近見てるドラマの話。そんな話をしていたらあっという間に0時を過ぎていた。2人は『また』と電話を切り、佐藤はスマホをベッドに投げ出すとそのまま寝た。
その夢は随分と昔の夢だった―――。
義孝に会ったのは中学一年生の時だった。佐藤は隣の席に座る体格のいい、目つきの鋭い義孝から目を離せなかった。だから話しかけた。名前順で隣の席になった同級生の男の子。ただそれだけの存在だった。佐藤と義孝は同じ部活―――柔道部に入部した。
それから部活に打ち込む日々が始まった。あの頃の佐藤は恋や女の子よりも、柔道の方が大切だった。それは義孝も同じで、2人は話が合った。2人が気の置けない仲になるのも時間はかからなかった。
義孝とは中学3年まで同じクラスだった。それが何よりも楽しくて。嬉しくて。それは義孝も同じだった。義孝はその中学生に見えない顔立ちから誤解される男だった。喧嘩が強いとか、目で人を殺せる、なんて馬鹿みたいなうわさも流れる程に。
3年になって義孝は学年で一番大きな身長になっていた。柔道も上手くなり、主将になるほどになった。
「鈴岡、」
「あ、先生」
よく部室で柔道部顧問の椙山(すぎやま)先生に声を掛けられていた義孝の事をよく見た。
あ…頭、撫でた―――。
佐藤はどこか心がざわついていた。椙山が義孝を見る目がどうしてか気に食わなかった。何となくいやらしいものを感じたからだ。そんな事露知らず義孝は椙山に信頼を寄せていた。それが―――何よりもムカついて仕方がなかった。
嫌いだ。あの人―――。
そんな事を佐藤は思っていた。
「佐藤、来い」
「ああ、行くぞ」
義孝と技を掛け合う事が好きだった。何も考えなくて済むから。体格のいい義孝を組み敷くのは男の性なのか…凄くいい気分だったのをよく覚えている。ちらりと見える鎖骨。シャツから透ける乳首。そんな姿にドキドキしている自分が居ることに気付かないふりをしていた。
「今のは良かった」
義孝が嬉しそうに佐藤を見る。こんな笑みは自分にしか見せていないのだと思うと嬉しかった。
ずっとその関係が続くと思っていた。だが、梅雨になった頃席替えが行われてそれは一変した。義孝はあろうことか問題児である月村、田鍋、矢花と席が後ろ前になったのだ。佐藤は一番前の席になった。たったそれだけの事だったのに、明らかにクラスの雰囲気が―――変わった気がした。
授業中、どこからか聞こえる椅子を蹴る音。問題児3人で話す声。佐藤にとっては全てが雑音だった。
日に日にやつれていく義孝が気になった。何があったのだろう。そう思っても佐藤は「大丈夫か?」としか聞けない。義孝は驚いた顔をして、「大丈夫」と答える。そんな彼にしてやれることなんて佐藤にはなかった。ただ友人として傍に居るだけしか出来ない。
しかし佐藤は知ってしまった。義孝があの3人から虐められていることを。
それは夏の終わりだった。突然月村と矢花が机の前にやって来たのだ。
「なァ、佐藤だっけ。鈴岡と仲良しクンの」
月村に話しかけられるのは初めてだった。だから、一瞬自分に向けられている言葉だと認識できなかった。
「聞いてるの」
矢花に声を掛けられて、ハッとなる。
「あ、うん」
何とか返事が出来た。どうして2人が話しかけてくるのだろう、と素直に疑問を持つ。それに―――今すぐにこの場から逃げ出したかった。2人の声は聞いているだけで脳内に警告音が流れる声だ。どうしてこんなに不安になるのだろう。まるで蜂の模様のように、本能的に恐れている。
「鈴岡とさぁ〜。仲良くするのやめてくれない?」
「…は?」
まるで宇宙人と会話するようだった。意味が分からない。理解する事が出来ない。
だが2人の目は冗談で言っているものではない。本気、だった。
「邪魔なんだよ」
ゾッとする冷たい声。義孝に向けられた深い思いを感じ、佐藤は鳥肌が立った。
「うわあ」
佐藤は逃げた。「うわあ」と間抜けな声を上げて、その場から逃げた。
「あ、おいっ!」
「ふざけんな!」
2人の声が遠くに聞こえる。佐藤は耳を塞ぐ。腰が抜けて走るのも覚束ない。ただただ逃げた。誰も居ない下駄箱の前に座り込み、佐藤は丸くなる。
「な…なぐられるかとおもった…」
2人からの殺気は本物だった。佐藤は恐ろしくなって、震える身体を手で包み込む。あんなに人から憎悪を感じた事はなかった。それから佐藤は月村と矢花に怯える日々を過ごしていた。警告があっただけで何もなかったが―――佐藤は3人をよく見るようになった。
そして気づく。月村と矢花の目がよく義孝を追っている事に。その目は何処か熱っぽく…ゾッとした。そして今までの事を考えて、義孝はあの3人…特に矢花と月村から何かされている事に気付いた。それがレイプだと知ったのは義孝の首にキスマークといわれるうっ血痕があったからだ。
義孝は何も言わなかった。佐藤に相談しなかった。先生にも相談していないようだった。義孝はずっと耐えているようだった。それはきっと卒業の日まで続いたのだろう。
「ああ、やっと卒業出来る」
義孝は不意に呟いた。卒業式で校長先生に名前を呼ばれる前の事だった。その呟きはきっと隣に座っていた佐藤にしか聞こえなかった。
「鈴岡義孝くん」
「はいっ」
名前を呼ばれ、義孝は壇上に上がる。その姿はどの卒業生よりも堂々としており―――佐藤はカッコイイと思ってしまった。
「またな」
「あぁ」
帰り道、そう言って義孝と佐藤は2人は別れた。結局、それから2人は疎遠になった。2人は親友と言えるほど仲良くなった。しかし、最後まで義孝が月村たちの事を相談することはなかった。義孝は1人で耐え抜いたのだ。佐藤は何もできなかった。
あの3人が怖くて逃げた。助け出そうとすれば出来たのに―――佐藤はしなかった。日を重ねるごとに笑顔が消えていく義孝の姿は痛々しくて。部活にだけ集中する義孝は何かから逃れるようで。ただそれを見ていることしか出来なかった。
「どうすればよかったんだよ…」
佐藤は、小さくなる義孝の背中を見詰めて呟く。
「どうすればお前の事守ってやれたんだよ…ッ!」
その叫びは義孝には届かない。佐藤の頬にはいつの間にか涙が流れていた―――。