ンドルフィンと隠し事

18

 

 先輩に呼ばれ、それから様々な客と会話をし終わり、好紀は一人でオレンジジュースを飲んでいた。先輩にもう休んでいていいよ、と言われたからだ。話をするのは好きだが、ディメントの客相手だと気を遣うので疲れてしまう。先輩の言葉に大きく頷き、好紀はパーティ会場内ではあるが休憩が出来ることが出来た。

 ほっと一息ついていたところで、ふいに肩を叩かれた。

「コウ」

「あ、セイさん」

 声を掛けられ振り向いたら、セイが居た。上位ナンバーの彼が居ることは分かっていたが、話しかける暇がなかったのでこうして向こうから話しかけてくれるのは嬉しい事だった。セイはディメントの中でも、優しく、ナンバー3とは思えないほど謙虚な青年だ。コウを同伴として指名してくれる、好紀にとっての上客でもある。

「今は大丈夫なの? 忙しそうだったから…」

 気遣ってくれる聖月の言葉と表情に、心が温かくなる。

「ああ、もう大丈夫っすよ。雑用係終わったんで、ッうお」

 今は暇です―――、そう言おうとしてた好紀は素っ頓狂な声を上げてしまう。こちらに向かってくる人物が、今できることなら会いたくない人物だったからだ。圧倒的なオーラで、自分たちのいる方向へ進んでいく彼に周りに居た男女が色めき立つ。好紀は慌てて、170センチ後半の聖月の背中に回り込み隠れる。

 だが、そんな子供だましの好紀の行動は目の前に立っている彼―――クミヤには通用するはずもない。長身の彼が威圧感を醸し出し、好紀とセイの前で歩みを止め立ち止まった。そしてぎろりと睨まれ、目線で『こっちに来い』と言っているのが分かる。そんな事をされて、好紀もセイも固まった。

『いいの?! いかなくてっ?』

 腕を引っ張られ、セイに小声で呼ばれているよ、と訴えられる。

 いかなくていいの―――?

 そんなの、行った方がいいってことを、好紀は分かっている。―――クミヤに、パーティなんてくるなんて馬鹿なんじゃないかとそういう目で見られていたことがショックだった。今は、彼の顔を見れなかった。震えながら、好紀は項垂れる。

『あの、ちょっと今はムリです…っすいません』

 好紀が謝ると、セイは目を丸くした。

『ええ?! ねえ、コウ、クミヤさんになんかしたわけ?!』

「……」

 セイがこっそりと、好紀に驚き耳打ち問う。何かした…どころの話ではない。好紀は答えられない。背中に触れる彼から困惑が見えた。ここをどうやって切り抜けよう、セイに迷惑をかけないようにしたい、様々な感情が交差した瞬間腕に痛みが走る。

「ウ…ッ」

 クミヤが好紀の腕を掴んだのだ。強い、手の力だった。長い指が、コウの腕を包み、離さない。周りにいた人々は彼の行動に皆驚いている。それもそうだろう。誰よりもそうされた好紀が驚いている。まさかクミヤがこんな大勢の前で、自分の気持ちをはっきりと表しているなんて夢にも思わなかった。

 クミヤはただただじいっと好紀を見ていた。その目線には、意思が乗っていた。

 ―――早く来い。

 そう言われていることが、好紀には分かってしまう。

「わ、分かってますよ……」

 目をウロウロさせてながら、好紀はクミヤの意思表示に頷く。ここで従わなかったら、何があるのか分からない。

「…っ、あのっ。コウに、何もしないでください…ッ」

 セイがハッキリと大きな声で叫んだ。好紀を心配して言ってくれたのだ。それが分かり、好紀はじぃんと心が温かくなる。

「…べつに、何もしない」

 クミヤが言葉を放った瞬間、一気に周りがざわついた。

 何もしない―――。

 言葉ではそう言ったが、好紀は目線で「ついてこい」と言われてしまった。顔が歪むのを感じながら好紀は、ゆっくりと頷いた。そっとクミヤに近づくと彼は手を離し、後ろを振り向き去っていった。それに慌てて着いていく。好紀は、勇気を出して何もしないでくれ、といったセイに感謝していた。

 

◇◇◇◇◇

 

 まるでコンパスみたいな足がずんずんと先に進んでいく。それに好紀は追いつくのがやっとだった。それがまるで好紀とクミヤの関係性そのもののような気がした。廊下をずいぶんと進んだところで、聞き覚えのある声がかかった。

「コウ」

 自分を呼び止める声に好紀は足を止める。

 振り向くと、そこにはスーツ姿の息を切らせたイチがいた。精悍な顔立ちをしている彼のスーツ姿はよく似合っていた。眼鏡がずり下がって、指で直している姿はイチらしくないものだった。コウ、と呼ばれた声が聞こえたのかクミヤも足を止める。

「あれ、クミヤさん……?」

 まさかコウとクミヤが一緒にいるとは思わなかったのだろう、イチは困惑していた。どうして一緒にいるのか、そんな疑問が顔にありありと出ていた。好紀は考えを巡らせて、何とかここを切り抜けようとしていた。イチがわざわざ蝶の自分に声をかけたのは、「コウ」に用事があったからだろう。

「イチ、どうしたの?」

 イチはまじまじとクミヤを見ていたが、好紀の問いかけにはっとした。

「あ、ぁ…タイさんが呼んでたから…」

「先輩が?」

「あぁ」

 イチが話すタイは、好紀の先輩に当たる人だった。先輩が呼んでいるならいかなきゃいけない、そう考えるが視線を感じる。クミヤの目で、本当にそっちに行くのか?と語ってくる。タイは、青の蝶でもあり、好紀を同伴として指名してくれる好紀の顧客と言うべき人だった。

 目の前のクミヤという顧客か、タイという顧客か。タイはこのパーティーに誘ってくれた張本人でもあり、決して無下に扱うことは出来ない。それはクミヤも同じことで、優先順位を決めなければいけないことは百も承知だがすぐには決められないことだった。

 ―――クミヤさんに少し待ってもらって、いや、先輩に先に待ってもらうか…?

 頭の中でぐるぐると答えを探していると、ふいにイチから声がかかった。

「お前、クミヤさんにも用事があるんだろ? タイさんには言っとくから」

「…ホント?」

 まるで救世主のような言葉だった。好紀が涙目で問いかけると、イチは大きく頷いた。

「ありがとう、めちゃくちゃ助かるっ」

 手を握り、感謝の意を訴えるとイチに苦笑される。イチはクミヤを一瞥すると、好紀にだけ聞こえる声音でそっと耳元に囁く。

「クミヤさんには気をつけろよ。…じゃあな」

「―――」

 それは警告だった。

 好紀が言葉を失っている間に、イチは目の前から消えていた。イチの姿は幻のように消えていった。タイに説明するため、その場を去っていったのだ。クミヤさんには気をつけろよ―――。ぐるぐると、その言葉が頭の中で渦巻いていく。考えている暇もなく、視線を投げつけられる。

 ―――いくぞ。そう確かに、クミヤから言われた。

 再び足を動かしたクミヤに、好紀は必死に後ろをついていく。大きな背中は、誰も近づくな、とオーラが出ていた。そんな彼を追いかけるのは、気が引けた。クミヤは長い脚を動かし、廊下を抜け、ロビーに出た。何かするのだろうと周りを見渡すがクミヤが足を向けたのはホテルから出るためのドアだった。

 ホテルの駐車場まで来たクミヤは、その場に居たタクシーに乗り込んだ。好紀も、混乱しつつも、その後に続く。タクシーの運転手はクミヤに「お客さん、どこまで?」と問う。クミヤは簡潔に、ディメントの寮までの住所を言った。

 そこでやっと好紀は彼は帰るのだ、と知る。

 じゃあここまで来た自分はどうすればいいのか、好紀は目線を動かす。だが、クミヤからの返答はない。

 その時、好紀のケータイが震えた。慌ててケータイを確認すると、メールが届いていた。

『タイさんには伝えといたから、もう帰っていいよ』

 メールの差出人はイチだった。どうやら彼は、タイの説得に成功したらしい。そう書かれていて、好紀は心底ほっとした。これでいちよう先輩の心配事は解消されたということだ。まだ問題が残っているクミヤに、「あの、俺は…一緒に帰ってもいいんでしょうか?」と恐る恐る問う。

 クミヤは好紀を一瞥すると長い脚を組み替えた。ドキドキと心臓の音が鳴る。何を伝えられるんだろう、そう身構えていたが―――。

「……」

 彼は無言で好紀の問いかけに『答えた』。心がざっさりと、ハサミで切られたような気持だった。否定はしないということは、このまま居ていいのだろう、とは思うがそれでいいのか不安になる。

 そんな不安をよそにタクシーはゆっくりと発車した。車内は静寂に包まれた。

 流石の好紀でも、ディメントではない車内で話していい言葉、今の彼に伝えるべきものが分からない。だって好紀には分からないのだから。隣に居る美形の、いつもは分かるだろうクミヤの感情、伝えたいことが、今の彼には伺い見ることさえできないぐらい彼は『無』そのものだったから。

「お客さん、いい天気ですねえ」

 妙な雰囲気が流れた車内に、のんびりとした男性の運転手の声が響き渡る。好紀は時間が経ってからやっと

「そうですねえ。明日も晴れるといいですね」

 と、答えることが出来た。この運転手は大物なのかもしれない。今のこの車内で、そんな世間話をするという選択をしたのだから。それからは運転手も「そうですねえ」といったきり、話かけはしなかった。窓の外を見ると、確かに雲一つのない青空が広がっていた。

 その後、好紀とクミヤは一言も言葉を交わすことなく、タクシーの中を過ごす。それはディメントで働いている好紀にとって、初めての事だった。

 

 

 

 

 

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