ンドルフィンと隠し事

28

 

「えぇ? セイさんが辞める?!」

 2月の後半に差し掛かった頃。

 食堂で食事を取っていた好紀は、そんな事を隣に居たメンバーに言われて目を丸くし、驚きの声を上げる。

「あぁ。そうみたいだぜ? 今、その話題で持ち切り」

「そ…そうなんだ…」

 ――セイさんが辞める――?

 あのディメントナンバー3が辞める…?――にわかには信じられない言葉だった。セイ――、本名は知らない。というより、この場所で働いている人間で本名を知っている人の方が少ない。好紀も本名を明かしていないのだから。

「身請けされたのかねぇ? 羨ましいなぁ。中々見ないよ。身請けなんて。やっぱりナンバー3だからかなぁ〜」

「そうだね…。ナンバー持ちってだけで機会がたくさんあるだろうし…」

 いいなぁ、と言いながらラーメンを啜るメンバーの隣で好紀も同じ気持ちになった。

 身請けとは、借金があるメンバーや、ディメントから出たいメンバーには喉から手が出る程されたいものだろう。身請けは客が多額の金額を払い、男娼を買うシステムだ。昔ながらのシステムだな、と好紀は思う。それがディメントに存在するなんて不思議な気分だった。

 身請けは一番自分にとって縁遠い物だと思う。

 まず買ってくれる客がいない。

 自分に対して大金を支払う人間が思い浮かばない。

「プレゼント…」

「ん?」

「あ、あぁ! 何でもない」

「そう?」

 不思議そうな顔をして、メンバーはラーメンを啜る。好紀も言葉を帳消しにするように、ラーメンを啜った。食堂の醤油味のラーメンは何度食べても美味しかった。

 ――もうセイさんと会うこともないのかなぁ。

 好紀は寂しくなるな、と食べ終わったラーメンのスープを見ながら思う。セイには同伴に呼んで貰ったり、相談をしたり、とても世話になった人だ。その人が身請けかどうか分からないが、ディメントを辞める事になった。とてもめでたい喜ばしい事だ。

 ラーメンの皿を戻しながら好紀はセイにプレゼントを用意しようと考えていた。

 何がいいかなぁ――。

 そう考える好紀の背筋はピンと伸びていた。

 ――あれから、随分時間が経った。

 時間は経ったが、クミヤと好紀の関係は相変わらずだった。変わらない関係性にほっとする。もし気持ちがバレて、生徒と先生の関係性が変わったりしたらどうしようと思っていたからだ。そんな最悪な状態にはならなくて本当によかったと思う。

 それ程までに、興味がないのかと思うと何だかやるせない気持ちになった。だが、そこはポジティブに考えようと好紀は切り替える。

 やはりクミヤは好紀に挿入はしなかった。

 どうしてだろう、そう思う気持ちもあったし、本人に聞いてみたい気持ちも湧き上がる。だが、そうしなかった。聞いてどんな事を言われるか分からなかったからだ。深く考えすぎなのかもしれないが、もしそこから自分の気持ちに気付かれたら…――そういう懸念もあったので敢えて聞くことはしなかった。

 クミヤは好紀を同伴として指名し続けていた。

 それだけで幸せだった。

 以前よりもよく話すようになった。無言で、何を話しても無反応で無視をされていた頃とは、比べ物にならない程に成長していると思う。あの頃のことを考えると、今でも好紀は胃が痛くなる。よくあんな独り言を続けていたな、と自分を褒めたくなった。

 これ以上何を望めばいいのだろうか。

 好紀は同室のイチと一緒にセイのディメント卒業おめでとうございますのプレゼントを渡そうとしていた。

 イチもセイの卒業を聞いて驚いていた。だったら、いいの選ばないとな、と言ってくれた。

 雑貨屋で2人は色々と悩んでいた。どんなものにしようか、そんな事を言い合いながら。結局悩んだ末、2人はスノードームをプレゼントすることにした。キラキラとした雪が輝いていて、どこかセイのような雰囲気があった。優しい雰囲気が彼にピッタリだと思った。

 ラッピングをして貰いながら、喜んでもらえるといいね、と2人で話す。

 セイが暮らすディメントの寮ではない新居にはきっと似合っている、そんな確信があった。

 そんな事をしている内に、セイがディメントを辞める2月の最終日になっていた。 

 2月最後の日は、晴天だった。まるでセイの門出を祝うように、雲一つない空が広がっている。今日がセイさんがいなくなる日かぁ、と好紀は寂しそうにため息をつく。

 好紀が食堂で食事を取っていた時に、マイクを持った小向が現れた。隣には台に乗ったセイが緊張して立っていた。なんだろう、と注目が集まる。そして大きな声で食堂にいる人々に声を掛ける。

「今日で、ナンバースリーのセイが辞めるから一言挨拶をする。皆、その場で聞いてほしい」

 そう言った小向の言葉に、さらにセイへの注目が集まった。

「…今までお世話になりました。有難うございました」

  セイが一言大きな声を発し深々とお辞儀をすると、やがて不揃いな拍手がやってきた。その拍手からは、妬み、羨望、祝い、そんな様々なものが含まれていた。セイの立ち振る舞いは、初めて同伴に呼ばれた時より、随分と堂々としたものだった。

 やはり彼は変わったのだろう。

 きっとそれはいい方向に、だ。

 すぐにセイはその場から降りた。そして、颯爽と食堂を去っていく。

「セイさん…」

 好紀は感慨深げに独り言を言う。

 今日で彼と会うのは最後だ。自分には何が出来るだろう――。少しでもセイの役に立てれば、そう思い席を立つ。セイを追いかけた所で、思わずその場で隠れてしまった。ドクドクと心臓が早鐘を打つ。あまり見たことがない組み合わせが居たからだ。

 廊下にはセイとクミヤが居た。

 その2人の並んだ光景に心臓がぎゅっと締め付けられる。あり得ないのに、もしかしたら、セイを身請けしたのはクミヤなのではないかというありもしない事を考えてしまう。

「あの、俺今日ディメント辞めるんです。今までお世話になりました。有難うございました」

 セイは深々と頭を下げる。

 無表情な彼の顔からは何を考えているのかは好紀には分からない。

 だが、セイを見て立ち止まってくれる分には、2人は知り合いなのだろうとは思った。

 「…あぁ」

 無視か、無言だと思ったが、一言だけそう言われて思わず「えっ」と大きな声を上げてしまった。それはセイも同じだった。

「えっ」

 そのセイの顔はなんとも言えず子供っぽく、見た者に笑みを与えるには十分に間抜け面だった。それはクミヤもそうだったのだろう。彼は今まで好紀が見たこともない程穏やかな顔をしていた。そのことに、好紀は嫌な汗が流れる。

 どうしてそんな顔をセイさんにするの――?

 嫉妬の炎が燃え上がり、自分の醜い感情がぐつぐつと心の中で煮えるようだった。見たくない、と思った。まるでキスシーンを見た時を思い出す。あの時も、好紀は2人のいいシーンを見たくないと思っていた。あの頃と自分は何も変わっていない。

 「―――こんなところ、二度と来るなよ」

  好紀は彼が言葉を発した事にも、発せられた内容にも驚いた。セイはさらに間抜けな顔で目の前のディメントナンバー2を見詰める。クミヤは穏やかで感情のある瞳をセイに向け、そのままこちらへ向かってくる。その瞬間、頭の中で「逃げなければ」と警告が鳴った。

 だが、それは遅かった。

「コウ」

「…ッ?!」

 呼ばれて、好紀は後ろを振り向けないでいた。この声はどう考えても、先程居たクミヤに間違いない。

「盗み見とはいい度胸だな」

「え…っ、あ。あの! っすね…〜」

 はっきりと言われ、好紀は取り繕う事も出来ない。やはり自分の課題は突然の対応のようだ。やがてくすくすと笑い声が聞こえた。そして、肩に肌のぬくもりがやってきて心臓が喉から飛び出そうになる。

「どうしてこんなところに居る? 俺たちを追ってきてたのか?」

「…! …っ! …?!」

 好紀はパニックに陥った。それも無理はないだろう。何故ならスキンシップを殆どしないクミヤが、親しそうに好紀に対して腕を肩に回したからだ。そんな事をされたことがない好紀は顔を真っ赤にして口を魚のようにパクパクとさせている。

 その慌てようといったらなかった。それを知っているだろうに、さらにクミヤは腰に手を回す。好紀の腰の細さに目を細めつつ、至近距離で顔を赤らめ頬を染める好紀を堪能する。

「もっとお前は食べたほうがいいな」

「…! …!! !!!」

 驚きすぎて声も出せない好紀はコクコクと頷く。つつ…、と腰に手を這わされ身体が熱くなり一気に体温が上昇する。クミヤがこんな相手を心配するような言葉を言われて驚きながらも嬉しいような、恥ずかしいような気持ちが湧き上がる。

 好きな人にこんなことをされたら、気持ちを隠す方が無理という話だ。

「返事は?」

「……?! …!」

 声を出せという事だとは分かっていたが、こんな状態では出来るはずもない。好紀はクミヤの身体の中で暴れて何とか抜け出した。はぁ、はぁ、はぁ、と荒い息を吐きつつ、自分の身体を抱きしめながらクミヤを見詰める。彼はクスクスと楽しそうに笑っていた。

 そんな姿を見てドキッとする。

「まぁいい。セイの見送りちゃんとやれよ」

 クミヤは楽しそうに笑いながら、その場を去っていく。好紀は思わずへたりとその場で座り込んだ。

「……な、なに?」

 クミヤは明らかに変わった。前よりも好紀をああやってからかうようになったし、どこか人間味があった。それがいいのかは分からない。だが、1つだけ言えることがある。

「心臓に悪い〜」

 好紀は独り言を言い、突っ伏す。

 ――これからセイさんの手伝いをしようと思ったのに。

 中々心臓は鳴り止まなかった。

 昼過ぎに引っ越し業者が来て、業者の人がセイの荷物をテキパキと詰め込んでいく。詰め込むための荷物分けや業者に指示することも不慣れなセイを、イチと一緒に好紀が手伝う。イチは力持ちで、引っ越し業者と一緒になって運んでくれていた。

 そして、夕方になってやっとトラックへ荷物が運び終わる。

「セイさん、今までありがとうございました。あの、えっと…」

  好紀はセイに最後の挨拶をしようと話しかけるが、緊張で口が回らない。

「何急にそんな緊張してんだよ。ああ、すみません。これ、俺らからのディメント卒業のお祝いです」

  好紀の隣に居たイチが、好紀の持っていた包みを奪いセイに渡した。

 瞬間、好紀の「はぁ?!」と、声を上がってしまう。

 「えっ。わざわざありがとう…っ」

 黒いリボン包みを、セイは驚いきつつプレゼントをまじまじと見ていた。

 「頑張って選んだので喜んでくれたら嬉しいです。――今までお世話になりました。どうかお幸せになってください」

  紳士な笑みを浮かべ深々と頭を下げるイチ。様になっているので、妙に腹が立つ。

「あ、それ俺が言いたかったヤツなんだけど〜ッ。クソ―、イケメンだから絶対に俺よりカッコよく決まってるし」

 好紀が顔を真っ赤にして、イチに文句を言った。

「また会いましょうッ。絶対っすよっ」

 そう言うと、セイは笑みを浮かべた。心底嬉しそうな笑みで、良かった、と思う。セイはそれから様々な人に頭を下げ、今日来てくれて有難うございました、お世話になりました、と最後の挨拶をしていった。そして、本当に最後の挨拶を皆に向かって言った。

「ホントに今までありがとう。また、どこかで会えたら…」

 好紀とイチは「はいっ」と答えた。何とか涙が出ないように務めた。やはり最後は笑顔でさよならをしたいからだ。セイは笑みを浮かべて、その場を去っていく。その姿は爽やかで、この場所に未練がないように見えた。それでいいのだ、と思う。

 段々と遠くなる背中をぼんやりと見詰めていると、イチが肩を叩く。

「なぁ、もう行こうぜ。寒いし」

「あぁ…。そうだね」

 ぶるりと身体を震わせ、イチが言った言葉に好紀は頷く。好紀はイチの後ろに付いていく。セイとは反対方向へ進んでいく。いつか俺がここを出られたら――そんなありもしない事を考え、目を瞑る。ここに居れば、クミヤに会える。――それでいいのだ、今は。

 好紀はそんな事を考えながら、ディメントの寮へ帰っていったのだった。

 

 

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