ンドルフィンと隠し事

37

 

 目を覚ました時、広がっていたのは白い天井だった。

「――――ッ」

 ハッとして好紀は勢いよく身体を起こす。自分の部屋とは違う殺風景な寝室。腰の痛みで昨日の事を鮮明に思い出す。

 ああ、会わす顔がない―――。

 気持ちよすぎて、意識を飛ばしてしまった。男娼としてあり得ない失態だ。よろよろとリビングに行くと、大きな背中を発見した。

「美也さん…」

「…おはよう、好紀」

「おはよう、ございます…」

 昨日の事がなかったかのように、涼しい顔で美也が立っていた。美也は長い足を動かして、好紀の肩を引き寄せる。思わぬ事に好紀は硬直した。

「身体、平気か。まだ寝てて良かったのに」

「あ、だ、だいじょうぶです。元気いっぱいです」

「――そうか」

 優しい笑み。くすっと笑われて、それだけで心臓が跳ねる。これはかなり重症だ。肩を引き寄せたまま、美也は口を動かす。

「昨日の約束覚えてるな?」

「やくそく…」

 ―――今度する時は、お前がやりたいって言えよ。朝でも昼でも夜でもいい。したくなったら、したいって言うんだ。そしたらどんな状況でも俺は受け止めてやる。

 もしかしても、あの言葉の事だろうか。

「えっと、あ、はい…」

 身体中がカァーッと熱くなる。言えるのだろうか自分は―――そんな事を考えていると。

「ならいい。この後大丈夫か」

「え。あー、多分客とかは入ってないと思います」

「分かった。じゃあ、準備してこい」

「準備?」

「小向に言いに行く準備」

「―――え」

 美也の顔は嘘を言っているものではなかった。覚悟を決めなくていけないようだ。好紀はだるい身体を動かして、シャツやズボンを履く。好紀の準備が出来た所で美也は「行くか」と言って廊下に出る。それに慌ててついていく好紀はまるでカルガモの雛のようだ。

 小向の部屋の前にあっと言う間についてしまい、好紀は唾を飲む。

 今の時刻は10時。

 きっと小向は朝食を食べ終え、ここにいるだろう。美也は躊躇することなく部屋のドアをノックした。

「誰だい?」

 ドアの向こうから声が聞こえる。小向の声だ。

「クミヤです。少しお話がありまして」

「…クミヤか。入りなさい」

「はい。失礼します」

 無遠慮にドアを開けた美也に恐る恐る後ろについていく。ゆっくりとドアを閉めると、小向が机の椅子に座って居た。その手には書類を持っている。彼と顔を合わせると妙に緊張するのはオーラ故、なのかもしれない。だが今日はいつもの自信あふれる顏ではなく、驚きに包まれていた。

「驚いた。コウじゃないか。珍しい組み合わせだ」

「おはようございます。ど、同伴ですので」

 好紀はぺこりと頭を下げて、答える。

 バサッと書類を机の上に置いて小向は2人を凝視する。

「今日はどうしたんだい。2人そろって」

「単刀直入に言います。コウを身請けしたい」

「…は?」

 小向の顔はさらなる困惑に満ちてしまった。そんな小向を意に介さず美也は言葉を続ける。

「一刻も早くディメントを辞めさせたい。いくらで出来ますか?」

「…は? はぁ? ちょっと待ってくれ。意味が分からない。冗談なら質が悪すぎるよ」

「私が冗談を言うような男に見えますか」

 美也は真剣に言い切った。小向は頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜている。スーツのネクタイを緩ませて、頭を抱えていた。当たり前だろう。ディメントナンバー2の美也が、下位のメンバーを身請けする。そんなの誰が想像しただろうか。

「前にコウを買うなんてありえないと言っていたじゃないか」

「事情が変わりまして」

「事情が変わった?」

「私がコウのことを愛してしまった」

「―――ッ」

 はらはらと見ていた好紀は度肝を抜かれた。はっきりと言った美也の顔には曇りがない。冗談ではないと分かる。

「あ、あい…?! 君にそんな感情があったなんてね。にわかには信じられないが…」

「コイツが変えたんです、私を」

「う、わ――」

 腕を引き寄せられ、好紀は心臓が高鳴る。小向は美也の表情を見て驚いていた。好紀を見る目が熱っぽいものであり、愛おしいものを見る目だったからだ。

「わ…分かった。クミヤが本気なのは。んで? 君はそのまま働いてくれるんだよね」

「いえ。私も辞めさせていただきます」

「は…?」

 小向の顔が大きく歪む。

 正直こんなに小向の顔が変化する所を見たことがなかった。いつも自信満々で笑っている顔がデフォルトだからだ。

「嘘だろう…。私がお前にどれだけ世話してやったと思ってる」

「はい。ありがとうございました。10年間お世話になりました」

「ディメントナンバー2が辞めるなんて前代未聞だぞ?! こんな蝶のために!ディメントを辞めるのか!!」

 小向の顔がみるみると般若のように怒りの色に染まった。オーナーである小向は、よほど美也が出ていく事が衝撃的だったのだろう。ディメントナンバー2といっても、男役である青の蝶の美也はナンバー1なのだ。いなくなった損失はディメントでは計り知れないものだろう。

 ドンッと机を叩いた小向に驚いていると、美也は冷静に言った。

「この間の襲撃事件でディメントはコイツを守ってくれなかった。犯人も制裁を加えただけで警察には送り届けなかった」

「それは――」

 小向は言い淀む。

 ディメントは裏の組織だ。警察には関わりたくないのだ。だから、好紀を襲った犯人を制裁しただけで警察には言わなかった。

「そんなところにコウを置いとけない。何より気色悪い客にセックスさせたくない。私も…もう客とはセックスはしたくない」

「うそ、だろう? セックスがないと生きていけないクミヤがそんな事を言うなんて…」

 お前がそうさせたのか、と好紀は睨まれて身体を竦ませる。

「もう、好紀以外とはセックスはしない」

「な?! お前、お前…」

 小向はわなわなと震えている。

 どうしよう、と思っていると美也がこちらを見て『大丈夫だ』と目で訴える。

「今予約が来ている分はきちんとやる。だから、お願いします。辞めさせてください。ディメントナンバー2はお返し致します」

「ふ、ふざけるな! ディメントナンバー2のお前を失ったらディメントはどうなる?! この間セイを身請けにしたばかりなのに…ッ! どれだけの損失を生むと思ってる!」

「ナンバー3のソウが頑張ってくれると思います。それにまだまだディメントには有望な青の蝶が沢山いる」

「だとしても、お前以上の青の蝶は生まれないんだ…ッ! お前は至高の青の蝶ナンバー1だったのに…!」

「申し訳ございません。私は…、ディメントを、辞めます。辞めて、コイツと生きていきます」

「美也さん…」

 深々と頭を下げた美也。それは小向に決意は硬いと思わせるには十分な姿だった。ふるふると震えていた小向は、頭を掻くと、ため息をついた。

「すまない。興奮してしまった。…私には辞めたというメンバーを引き留める権限はない。辞めるにしても、条件がある。今すぐに辞める事は出来ない。お前は固定客が多いんだ。きちんと挨拶をして、誠心誠意お客様に説明しろ。好きな人が出来たとは言わなくていい。余計にこじれるからな。だが、――筋は通せ」

「…はい。分かりました。ありがとうございます」

 美也はまた大きく頭を下げた。

 こんなに頭を下げる美也は見たことがなかった。それ程――今回の事は本気なのだと伝わってくる。

「コウも1か月は最低でもかかるな。コウも少なからず固定客はいるし、すぐには辞められない」

「…はい」

 好紀は頷いた。だが、美也は待ったをかけた。

「客とはセックスすることはないんですよね」

「…あぁ。身請けをされるメンバーは出来ないことになっている」

「そうですか」

 よかった、と顔に書いてある。好紀も嬉しかった。

「いくらぐらいかかりますか?」

 美也の質問に小向はそうだな…と少し考えてから言った。

「コウは下位のメンバーだから、大体1000万ぐらいかな」

「いっせんま…!」

 大きな金額に度肝を抜かれる。いつかは払おうと思っているが、これではいつになるか分からない程の大金だ。

「安いな。そんなもんか」

 さらりと言われて、好紀は美也を二度見する。1000万で安いとは如何なものなのか。

「正直クミヤが居なくなる方が痛手だな。コウの10倍は価値はある」

「…」

 ―――10倍って…1億じゃないか。

 確かに美也にはそれぐらい価値はあるのかもしれない。こんなに綺麗な人なのだ。そんな事を思っていると、小向はため息混じりに言った。

「もう、いいかな。取り敢えず話は進めておくから。少し頭を冷やしたいし、今日はこれぐらいで…」

「はい。お時間を頂戴して申し訳ございませんでした。お話を聞いてくださりありがとうございました。それでは」

「失礼します。お疲れ様でした」

 美也と共にお辞儀をして出ていこうとする2人に小向が言った。

「2人で生きていくのは大変だぞ」

「―――まさか」

 ははっ、と美也が笑った。

「大丈夫ですよ、小向さん。貴方よりは幸せになります」

「お前なぁ―――」

「ちょ、美也さ…あっ!」

 ドアを締めた時、ばったりと見知った顔と鉢合わせになる。ディメントナンバー22、好紀のルームメイトであるイチだ。イチは美也と好紀が小向の部屋から同じく出てきた事に驚いているようだった。好紀が何と説明しようと思っていると、イチが先に言葉を紡ぐ。

「何で2人共、一緒に小向さんの所に…」

「そ、それを言うならお前だって…。なんかあったの?」

「そ。それは…」

 イチは言い淀む。眼鏡の奥の瞳が俯いた。美也はそんなイチにあることに気付いたのだろう。はっきりと言った。

「へぇ。ナンバー上がったのか」

「え、なんでそれを―――え、あ…!」

「え! そうなの? 凄いじゃん!」

 ナンバーが上がるのは凄い事だ。好紀は好奇心のまま聞いていた。

「どれぐらい上がるの?」

「…な、ナンバー14だって」

「すごい! 大出世じゃん! これで大きな部屋にいけ…ぁ、」

 ナンバー22だったイチからしたら大出世だ。ナンバー15から一人部屋にいけることになる。つまり好紀とはお別れすることになるのだ。それに気づき、寂しい気持ちになった。

「うん…。だからさ、コウと離れるの嫌だなって思って小向さんにこのままでいいって言おうと思ってさ……」

「そ、そうなの?! 俺はいいけどさ! 離れたくないし! イチはそれでいいの?」

「うん…」

 イチの顔は決意に満ちていた。そんなイチにドキッとする。

「ふーん。なんか妬けるな」

「え?」

 美也はぼそっと言った。不意に言われた言葉にイチはキョトンとしている。好紀は慌てて「何でもない!何でもない!」と誤魔化した。美也はニヤニヤとしていて、妙に恥ずかしかった――。

 

 

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