ンドルフィンと隠し事

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「そんな、嘘だろ! 嘘に決まってる…ッ! コウくん嘘だと言ってよッ!」

 悲痛な叫び声に、好紀は思わず顔を背けた。しかしその反応はタイにとって、『真実』である事の何よりも証明だった。タイはその場で腰から砕け落ち、その目は悲しみと怒りで揺れていた。

「ほら、行くぞコウ」

「あ―――」

 こんな奴の事はほっとけばいい―――美也の目はそう雄弁に語っていた。美也に好紀は肩を引き寄せられ、されるがままになる。そんな2人を見て、タイは叫ぶ。

「本当なら、絶対に幸せになんかなれない! 絶対に! コウくん、自分がどれだけ淫乱なのか分かってるの?! 俺の手でどれだけ感じてたと思ってる?! それなのに、普通の幸せなんかで満足できるの?!」

「―――ッ」

 好紀はタイの言葉に身体が石のように固まった。『幸せになれない』―――それは小向にも言われた言葉だった。好紀と美也では、幸せになれないと。自分こそが性に飢えた『怪物』で、美也の事を脅かす存在のではないかと―――目の前に果てしない闇が広がった。

 まるで死人のように動かなくなった好紀を溶かしてくれたのは、意外な人物からの言葉だった。

「コウくんは、幸せになれるよ」

 ハッとして、顔を上げると朗らかな笑みを浮かべている美也の運転手が居た。運転手は、シワのある顔を真剣な表情にし、言葉を続けた。

「コウくんは、誰よりも努力してきたんだ。クミヤさんの同伴になってからずっと、話しかけても返事をしないクミヤさんの事を少しでも心地よくお客様に会えるように笑顔で話しかけ続けていた」

「う、んてんしゅ…さん」

 それは、同伴としての仕事を行う好紀の傍に居た運転手の真っ直ぐな言葉だった。先程まで真っ黒な闇に覆われていた視界が段々と明るくなる。好紀の手に仕事人らしい、ゴツゴツした運転手の手が包み込まれていた。その手は好紀の心を癒してくれた。

「ディメントで辛い空気が流れている中、コウくんは私の中で太陽のような存在なんだよ。その場に居るだけで温かくなる…。だから、そんな君だから幸せになるべきなんだ」

「―――」

 言葉を失った好紀に、運転手はニッコリと笑った。

「きっとそう思っている人も多いよ、ここには。例えば…すぐそこにも…」

 そう言われて見上げると、美也が好紀の事を見詰めていた。その熱っぽい視線に好紀はドキドキと心臓を早める。

「んな事、俺が一番わかってるよ! コウくんの笑顔はこのディメントの中では本物だった! 噓偽りのない、本当の笑顔だった…!! 太陽みたいな…笑顔で…俺を…見てくれてたんだよぉ…」

「タイさん…」

 タイが涙ながら訴える。それだけで、彼の気持ちは本物だと分かる。好紀にしがみ付き、必死に訴えるタイがいつもの彼のようではない気がした。普段の彼は自信に溢れ、まるでモデルのようにたち振舞っていた彼だが今は見る影もない。

「そう思っているなら、そんな彼を悲しませちゃ駄目じゃないか」

「―――ッ」

 運転手の言葉にタイが息が飲む。好紀の顔をじっと見た後に、タイの瞳が大きく揺れた。

 好紀はしゃがみ、タイに視線を合わせた。好紀の行動に周りの空気が変わった。

「タイさん、俺……タイさんに同伴として指名されて嬉しかったんです。売れない蝶として稼ぐ上で同伴の仕事で、指名してくれるタイさんの存在は有難かった…。でも、同時に苦しかった…。触られる度に、自分が無くなっていく気がして…」

 好紀の言葉に、ハッと顔を上げ、タイは再び大きな目を見開かして涙を流す。嗚咽をしながら叫ぶ言葉は、宙に浮かんで消えていく。

「コウ…っ、こう、こう…ッ! ごめん、すき、なんだよぉ。だいすき、だったんだよぉぉお…ッ! あい、じょう、だったんだよぉ、ごめん、ごめんなさいぃっ」

「……タイさん」

 好紀の身体にしがみ付くタイを振り解けない。

 少しでも抵抗すれば彼が消えてしまいそうだったから。

「さいご、さいごに、おねがい、『大貴(たいき)』って、よんで…おれのなまえ…だから…」

「…分かりました。俺からも、お願いです」

「な。なに?! なんでも、聞くよッ」

 子供のように目を輝かせるタイにほんの少し罪悪感が生まれる。

「もう、俺みたいに…勝手に触ったりとか、他の男娼にもしないでください。それと、佐々木さんにも…労わってください…。佐々木さんは、俺だけじゃなくて、タイさんの事も心配してました」

「―――ッ、うん、わかった。わかったよ…やくそく、するよ…」

 タイが何度も頷いている。

 ―――きっともう、彼は、過ちを繰り返さないだろう。

 そう確信した好紀は、ハッキリとした声で彼の本当の名前を呼んだ。

「有難う、大貴さん」

「―――っ、う、ぅう…うぅうう…うああああああっ」

 好紀が笑みを浮かべて名前を呼ぶと、タイは泣き叫んだ。まるで子供のように、苦しいと、嬉しいと、泣いていた。

「もう、いいだろ。いくぞコウ。―――おい。お前への処分は追ってオーナーから連絡が来るだろう。相応のペナルティだから、覚悟しとけ」

 好紀の身体をタイから美也は引きはがすと、冷たい表情で嗚咽しているタイを一瞥する。タイはきっとその言葉は聞こえていないだろう。そんなタイを、佐々木がしゃがみ込み、背中を撫で続けた。決してタイのしたことは許させる事ではない。

 しかし運転手である佐々木は、タイを心配しているようだ。それは同情なのか、それとも別の感情なのか―――それは好紀には分からない。だが、今脆く崩れそうなタイを支えてくれるのはきっと彼だと思った。

「おい、近藤(こんどう)…車を出せ」

「はい。あ、え、クミヤさん…私の名前を初めて言いましたね?」

 美也の運転手である近藤は、目をパチパチとさせている。確かに好紀も初めて名前を聞いた気がする。

「―――お前が言ったんだろ」

「え?」

 突然話を振られて好紀は近藤と同じく目をパチパチとさせた。不思議そうな顔で美也を見詰めていると、近藤がクスッと笑った。

「ふふっ、クミヤさんは本当にコウさんが大好きなんですね。―――じゃあ、行きましょうか」

「え? え? ど、どういうことですか?」

「もういいだろ。さっさと来い、コウ」

「えっ、あの?! ちょっと待ってくださいッ」

 すたすたと足早にその場を離れる美也に着いていく近藤を好紀は慌てて追った。

 ―――好紀が、2人が言っていた意味を知るのはそれから車を乗ってディメントに着いた時だった―――。

 

 

 

 それから2週間ほどで、何処からか漏れたのか知らないが、あっと言う間に美也がディメントを辞める事がディメント中に広まった。

 当たり前だが、好紀が辞めることはそこまで話題にはならない。しかしそれは上位メンバーだけのことで、下位のメンバーたちの衝撃は大きかった。下位メンバーは身請けされることが滅多になく、借金を背負っているものならコツコツと働いて稼ぎ、辞めるしかない。

 同伴のプロ、と言われるほどの好紀が『身請けされて辞める』ことは、下位のメンバーたちの希望となった。

 だから、仲が良かったメンバーたちに『相手は誰なんだ』『どうやって取り入った』等下世話な質問をされて好紀は参っていた。

 メンバーだけではなく、『コウ』の客であった少ないながらの男たちの質問も答えるのが大変だった。

 特に大変だったのは、あの佐嶋だ。どうして抱けないんだから始まり、どこの男に身請けされただの、今後はどうやって生きていくのかと、しつこく聞かれた。その必死さに、彼も『コウ』を少なからず愛してくれたのだとやっと好紀は気付いた。

 大金持ちではない佐嶋がディメントに通う事は大変だったはずだ。それが例えディメントでは下位メンバーである好紀であっても、他の店の何倍も指名料を取られていた。文句やケチをつけつつ、通うのは相当コウを気に入っていたに違いない。

 最後に泣きながら佐嶋に『俺の会社に入社してくれ〜』と言われた時は、『ああ、こんなにもこの人は俺の事が好きだったんだ』と思ったものだ。

「俺、夢があるんです。だから、佐嶋様の会社には入社出来ません。他の男娼をこれからも指名して、ディメントに通ってくださいね」

 と、好紀が笑顔で言うと、あんなに傲慢だった佐嶋がまるで大型犬のように身体を丸くてしくしくと泣いていた。

「それで、コウはよろこぶのか? しあわせになれるのか?」

 さめざめと泣かれて言われた言葉に、好紀は頷いた。

 『身請けされて幸せになれるなんて思うなよ』

 『すぐに幸せなんて終わっちゃうよ』

 『どうせすぐに別れる』

 それは散々、他の男娼、ディメントの人間に言われてきた言葉だ。そう言われる度に近藤に言われた言葉が蘇る。

『そんなコウくんだからこそ幸せになるべきだ』

 ―――だからこそ、俺は、幸せになる。

「ええ。幸せになるんです、俺」

 そう満面の笑みで好紀が言うと、佐嶋はぽかんと口を開けていた。

 きっと誰よりも幸せになろう―――好紀はその顔を見て決意した。

 

 

 

 

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