アドレナリンと感覚麻酔 

第三章 第十三話

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  契約書を眺めていると、アレが嘘ではないと分かり聖月は机の前で息を吐く。割れたDVDの固まりを、聖月はぼんやりと見つめる。

 小向(こむかい)から突然言い渡されたあと3か月という余命宣告を、聖月はまだ完全には受け入れていなかった。今まで散々辞めたいと思ってきた。それは今でも同じだ。今すぐにも『ディメント』なんて辞めて、ディメントナンバー3(スリー)なんて役目を終えたいのに。

 ―――なっ、急すぎませんか…ッ?!

 神山(こうやま)の先程言われた言葉がぐるぐると回る。急すぎる、そういう気持ちが沸き上がる。急でも何でもいいから早く辞めたい―――、そう考えたけれど、心の中でもやもやとしたモノが残る。もっと考えなくちゃいけないことがあるのに、全然頭が回らない。

 あの時、神山と小向は何の話をしていたっけ―――?

 思い出そうにも、衝撃的な出来事が多すぎて、聖月の脳が働いてくれない。

「あ…、そうだ」

 考えてもまとまらない思考は置いとき、ふいにやりたいことを思い出した。聖月はケータイをバックから取り出す。―――ディメントにいるのはあと3ヵ月だと言う事を教えたい人がいる。聖月は焦る気持ちで、その人に『こんばんは。突然だけど、ディメントをあと三か月でやめることになったよ』とメールを送る。

 送信ボタンを押し、ケータイをベットに放り出す。すると、ケータイがベットの上で震えだした。

「うおっ、あ、これ、どーやって押すんだっけ?! えーと、えーと、」

 機械音痴である聖月は久しぶりに来たケータイからの着信に大声で一人慌てふためく。

『もしもし』

 手に持ったケータイから、綺麗な声が聞こえて、聖月は慌てて耳に当てた。

『あの、キミヅカ ミツキさんのお電話ですか?』

 落ち着いた声に、聖月はほっとする。聖月は息を整えて、ついでに背筋も伸ばし、ベットの上で正座する。

「はいっ、キミヅカ ミツキのお電話ですっ」

『ふふっ』

 女性の笑い声が耳にあたりくすぐったい。電話をかけてきてくれたのは、小田桐きり(おだぎり きり)だった。あることがきっかけで彼女と知り合い、彼女もディメントで働く事を知った。それから二人はメールで励ましあう、メル友のような関係性だ。

 あまり大学では会わず、メールだけでやり取りをするので、こうやって声を聴くのは久しぶりだった。パーティー以来の優しい声に、聖月は緊張しつつも自然と力が抜けていく。女の人と電話で話をするのは初めてだ。というより彼女と電話をするのはこれが初めてだった。

『あ、ごめんね…急に電話して…今大丈夫?』

「うん、大丈夫だよ」

 聖月が頷くと、きりの息の吐く音が聞こえてドキリとする。そして、耳朶に入ってきたのはきりの泣きだしそうな声だった。

『…本当に、おめでとう。ディメント…やめることができるってメールで見て居ても立っても居られなくなっちゃってかけちゃった』

「――――ッぁ」

 頭の中で、きりが聖月の境遇を知り泣いたあの日の事が蘇る。聖月の喉がひゅうっと鳴った。―――君塚くんみたいな、優しい子が、働いてるって。かなしかった…。そう言って泣いてくれたきり。あの時のように彼女は聖月のために泣いてくれた。こんなに、幸せな事ってあるのかな。

「…ありがとう。俺小田桐さんのおかげで、耐えられたから」

『そ、そんな…。私だって、君塚くんに救ってもらった…」

 ぐすぐすとしゃくりを上げて泣く小田桐さんに今すぐ会いたいと思ってしまった。救ってもらったと泣いている彼女に、俺もだよと小さく言った。そういうと、電話の向こう側で息を呑む音が聞こえた。自分にその資格があったら、彼女を抱きしめたい。そんなことをしたら気持ち悪いと思われるから、やらないけど。

 もし…自分が…人を愛する資格を得たら、彼女のような人と幸せになりたい。

 聖月は叶わない願いを浮かべていると、

『…あの、ディメントを出ていくってことは、もう寮を出る準備してるの…?』

 鼻をすすりながら問われて聖月は固まった。

 寮を出る―――?

 聖月が考えようとして、思いつかなかった「やること」に頭が真っ白になる。

 ディメントをやめるということは、つまりこの部屋から出ていくということに変わりはないだろう。きりに言われて、それにやっと気づいた聖月は身体を固まらせる。脳内に浮かんだのはケイや蒼やコウの顔だった。小向に会わなくなるのは嬉しいが、皆にもう会えなくなると思うと寂しかった。蒼やキダにはもう会わなくてもいいが、ケイやコウは別だ。

『君塚くん?』

 何も言わなくなった聖月を心配そうな声が意識を戻させる。

「あっ、ごめん。…何も、そこらへん考えてなかった…」

『そうだよね。…急に言われると、混乱するよね…』

「そうなんだよね。あと3か月って今日言われたし…」

『ええ?! それは急だね? なにか、理由とかあるの…?」

 そう聞かれて、聖月は記憶を遡る。急に呼び出されて、脅された元凶であるDVDを大量に返されて、あと3か月だと言われて。

 ―――…まさか彼が君にここまで熱心だとは思わなかったよ。…優しいお客様に愛されているね。…セイを勧めたのはよくなかったな。君はディメントナンバースリーとして重要な人物だった。…それにしても…DVDを買ったお客様から全部取り返すのは苦労したよ…―――。

 小向に言われたことをきりに伝えると、彼女はおずおずと言った様子で言った。

『それって、君塚くんのお客様がDVDを買い取ったってことじゃないの?』

「え?」

 電話越しのきりの言葉に聖月は衝撃を受ける。

 よく考えたらそうだ。今まで混乱していて、気づかなかったがそういうことだろう。

『凄い大金払ってもらったね…。誰が払ってくれたか、もうわかってるの?』

「…ッ、」

 聖月が目を背けてきた事を聞かれ、動揺する。聖月のお客様の中で、それだけの事をできる金持ちで、優しくて、DVDの事を知っていて、脅されて入った過去を知っている人間なんて一人しかいない。どっ、どっ、と心臓が早くなる。胸が痛い。

 どうして、彼はそんなことをしてくれるのだろう。大金をはたいてまで、今まで会いに来てくれたが、きっとDVDを全て集めるのは聖月に会い続けるより高額なはずだ。

 自分と彼の関係性は、ただの男娼と客という関係性なのに。そこまでして貰えるほど自分は価値がないのに…。

 感激とか、感動とか、そういう感情が入り混じって涙があふれた。先程たくさん涙が枯れる程泣いたのに、まだ涙は残っていた。聖月の頬が涙で濡れていく。

『…ッ、君塚くん…?大丈夫…? ご、ごめんね……』

 彼女が踏み込みすぎたのだろうか?悪いことを言ってしまっただろうか?…そんな感情が混じった言葉と声に申し訳なくなる。男なのに女の子を悲しませちゃダメだろ、自分!―――聖月は自分にそう言い聞かせて、なるべく明るく声を作る。

「ううん、こっちこそごめんね。小田桐さんが謝ることじゃないから…、俺…」

 宗祐(そうすけ)の事を話そうとするのをためらう。

 彼女に聞いてもらって、自分はどうしたいのだろうと思ったからだ。第一こんなことをきりに話すなんて彼女に迷惑がかかってしまうのではないか?。そんな事ばかりが頭に浮かんだ。聖月がためらっていると、きりが包み込むような声音で声を発する。

『……あの、さ。なんでも話し聞くよ。あ、わ、私じゃ役に立つか分からないけど…ッ。少し話せば、すっきりする効果もあるでしょ?だ、だからね…なんでも言ってね…?』

「小田桐さん…」

 止まっていた涙がまた溢れそうになる。おずおずと提案してくれるきりの優しさが胸が締め付ける。心がじんわりと温かくなった。こんな気持ちは久しぶりだった。聖月と同じように、彼女もあと2か月でディメントをやめる境遇が同じだからか、そう言ってくれるのだろうか。

 聖月はきりの言葉に後押しされる形で、宗祐の事を話し始めた。それを彼女は、真剣に聞いてくれていた。拙い聖月の言葉に、うん、うん…、と相槌を打ってくれる。その様子はまるで、聖母のような慈愛に満ちていた。きりに話すのは、死んでしまった母に聞いてもらうような安心感があった。

 まだ若い彼女にそういう風に思ってしまうのは、失礼だけれど、聖月には彼女から母性を感じてしまう。共感性が高いのか、彼女は聖月と同じ気持になって考えてくれていた。それは聖月に安心感を与え、言わなくてもいいようなことを話してしまう。

「俺、分かんなくて…。羽山様がお金を払ってまで、俺をディメントから抜け出せるようにしてくれて…本当に、俺…申し訳なくて、ありがたくてさ」

 彼女は、何度も聖月の話に頷いてくれた。優しい声に、段々と自分に気づかない気持ちまで言葉に出してしまう。

「会って、話がしたい…、お礼をしたい。彼の望みを叶えて…、あげたいって…身体でも何でもいいから…叶えたいんだ」

 言った瞬間、ああ、きっとそれが自分の気持ちなんだろうと確信した。ずっとお礼が言いたかった。今まで救ってくれて、偽りの優しさでも、優しくしてくれて本当に救われたのだと宗祐に言いたかった。

『――――…ッ、うん』

 彼女が微かに息を乱したが、頷いてくれたことが嬉しくて聖月はそれから話を続けた。

 しばらくしてから、きりがふいに口を開いた。

『……君塚くんは…その人の事、好き…なんだね』

「え…」

 そう言われて、そうか、と思う。あっけなく彼女の言葉で、自分の気持ちの正解がつけられた。ストン、と気持ちの場所が決まった。

 これが、好きという気持ちなのだろうか。彼ばかり考えてしまうこの、醜いようで温かい気持ちが。十夜の告白に対して断った自分が、そんな気持ちを抱くなんて何だか罪悪感があった。急に、何だか自分自身が恐ろしく思えた。

「そ、そうなのかな…?」

 違うんだと言ってほしいような縋る気持ちで、きりに問う。彼女は明るく言った。

『そうだよ…、よかったぁ。君塚くんに好きな人が出来て。私、嬉しいっ』

「―――」

 いつも以上に明るいきりの様子に、何だかそんなネガティブな気持ちを抱くこと自体おかしな気がした。彼女がこんなに喜んでいるのに、自分のこの気持ちは恐ろしいと考えるなんて罰当たりで、きりに失礼だ。聖月は、暗い自分の気持ちをそっと振り払い笑みを浮かべる。

「…小田桐さんも、好きな人が出来るよ。…絶対にその人と恋人になれるっていう呪い今かけといた」

『―――、っふふ。何だか、君塚くんが言うと効きそう』

 きりが否定しないことに、心底ほっとする。彼女は、好きな人なんて…結婚とか、恋人とか、人を愛することは自分にとって不釣り合いで、資格なんてないって言っていた。それが、今の彼女にはない。それが嬉しくて、また聖月の鼻がツンと熱くなる。

 笑っている彼女は前に会った時より、全然明るくて、聖月は彼女の着ていた白いワンピース姿を思い出していた。そんな姿を思い出していたら、ある事をしたくなった。

「…そうだ。小田桐さんもあと2か月で終わるし…お祝いしたいな。服のサイズ…聞いてもいい?あ、セクハラだったら言って!」

 急な聖月の提案にきりはさらに感激した様子で頷いてくれた。

『…っ、嬉しい。私にプレゼント…くれるの? あの、私もサイズ…聞いていい? 交換しようよ』

「…っえっ、いいの? …ありがとう、一生大切にする」

『あはは、大げさ〜』

 彼女は大きく笑っていた。その声は嬉しそうで、聖月は言われたサイズをメモに必死に書く。

 聖月はきりにワンピースを送ろうとしていた。黄色い花か、白い花が描かれている彼女にきっと似合うワンピースをプレゼントとしようとしたのだ。神聖な彼女にはきっとそれが良く似合う。

 それを着たきりはびっくりするぐらい綺麗で、可愛らしいんだろう。そしてその服を着た彼女の隣にはお似合いの優しい恋人が歩いている。そんな明るい未来が聖月の歩く道の先まで照らしているような気がしてゆっくりと瞼を閉じた。

 

 

 


 

 

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