アドレナリンと感覚麻酔 

第三章 第十三話

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◇◇◇◇◇◇

 

 翌朝。きりと夜通し電話した聖月は瞼が閉じそうになるのを必死に堪えつつ、共同スペース――食堂に向かっていく。部屋に戻ったら、契約書を小向に渡さないとな。そんな事を考えていたら見知った高い声が聞こえてきた。

「聖月ッ!」

「へっ、な、なに?!」

 急に名前で呼ばれて身体を大きくビクつかせる。目の前にはディメントナンバーファイブであるケイが頬を膨らませて仁王立ちしていた。膨らませた頬が何ともりんご飴みたいで可愛らしい。ぷりぷりと怒った様子のケイの姿に聖月は何かあったのだろうかと怯えた。

「ちょっと蒼をどうにかしてっ」

「ええ?!」

 急に言われた言葉に目を瞬かさせる。そして、ケイを押しのけるように食堂の入り口からやってきたのはディメントナンバーフォーである蒼(あおい)であった。怒り心頭な蒼の様子にも驚いたが、右手が包帯で巻かれておりそちらにも驚く。蒼がケガをしているところなんて聖月には見たことなかったから尚更だ。

 ケガなんて失敗などするほど、彼は怒っているのかもしれない。

 …もしかして、ディメント辞めるってもうばれた?

 昨日の今日だが、情報が早い蒼にはもう耳に入ってきたとか?

 そう考えた聖月は一気に、顔面蒼白になる。だが、

「何でお前のDVDが俺から奪われなきゃなんねえんだよッ」

「っはぁ?!」

 急に怒鳴りつけられた内容に聖月は目を剥いた。少し考えてから、ハッとする。そういえば、蒼は聖月のあのDVDを買っていたことを思い出す。つまり蒼は容赦なく小向からDVDを奪われて憤慨していると言う事だ。八つ当たりにしか思えない内容に、聖月は反論する。

「俺に八つ当たりすんなっ、そんなの知らないしっ」

 嘘と自分の気持ちを混ぜて言ったので、妙に真実味がある言葉になった。しかし、聖月は内心動揺していた。

 DVDを回収したことが本当だと言う事と、ここまでDVDを奪われて憤慨している蒼に。DVDでこれなのだから、あと3ヵ月でディメントを辞める事になったと知ったら大変な事になる気がしてならない。聖月は怒っているふりをしつつ、蒼を押しのけ食堂に入っていく。

「お前本当に知らねえのかよ」

「知らないよ、初耳だし」

「お前が頼んだの? 小向様に身体売って、媚売ったのかァ?」

 おちょくりと、本気で思っているだろう言葉だろう。流石にムッとした。

「…言うわけないだろ」

 蒼と聖月の席からピリピリした空気が食堂に流れている。共同スペースであるこの場所でディメントナンバー3、4が言い争いをしているからだろう。それをナンバー5が「聖月、もっと言い返して!」と応援している。ここにいる男たちの中には、聖月と蒼が乱闘寸前の場面に居合わせた者もいる。そうならないか、ある者は心配そうに、または面倒事を避けて食堂から離れる者もいた。

 それに申し訳なくなりつつ、聖月はケイも大変だなと思う。

 それから蒼が綺麗な顔をグチャグチャにしたみたいに聖月の隣の席に座って小向に対して怒り続けていたが、聖月はそれを無視し定番の朝カレーを頬張った。何となく、いつもより美味しさは感じられなかった。

 蒼の質問攻めは長く続き、やっと解放された頃には大学に行く時間になっていた。結局小向に契約書を渡せなかったと、朝から憂鬱な気分であった。いろいろと考えることはあった。ディメントの寮から出ていきたかったが、どこに住めばいいのか分からない。

 きりにメールで、分かりやすい引っ越しサイトを教えてもらったので後で見ようと思う。聖月が、すぐに出ていこうとすぐに決断できないのは理由があった。それは、兄への説明だ。施設に入ろうと言ってくれたのは兄で、よりよい暮らしを出来るようにお金を多分小向に渡している。その兄に施設を出て一人暮らしをしたいなんて言ったら、いじめられていたのか?!何かされたのか?!と言う事になりかねない。

 何かされたのは確かだが、施設の事を突っ込んで調べてディメントの存在を知られてしまうのは絶対に避けたい。

 貯金は使わずにとってあるので寮を出て生活するための金の心配はないが、それを使うのは気が引けた。一時的にもディメントでの稼いだお金を出来れば使いたくはない。

 というより、過保護である兄がおいそれと3ヵ月後急に一人暮らしをしたいという弟の願いを素直に受け入れてくれるのだろうか。

 だからと言って、寮に大学卒業までいるのは何だかおかしい気がする。3ヵ月後はディメントを辞めているのに、辞めている奴がのこのこと居座っているのは他の蝶や青の蝶にどう映るのだろう。それに、聖月の気持ち的にもあの場所にずっとは居たくない。

 ――暮らしやすいし、ご飯も美味しいし、家賃はタダだし、住むに至る経費もタダだし…いいこと尽くしだけれど。

 聖月のそういった気持ち的な意味でディメントを辞めた後も居残るのは嫌だった。

 我儘だと笑われそうだけど、そういう気持ちは譲れない。

「はぁ……」

 そんなことを考えていたら、いつの間にか大学の授業は終わっていた。今後の事を考えていたら何だかいつも以上に疲れた気がしてため息をつく。クラスメイトたちに別れの挨拶をし、トボトボと寮へ戻る。足どりが重くなるのは、今日はディメントの仕事があるからだ。

 それに、足取りが重いのはそれだけではない。―――十夜にも会えなかった。

 十夜にはディメントを辞める事を直接言いたかった。メールや、電話じゃなくて、直接会って話したい。そう思ったのに、今日は十夜が大学にいなかったのだ。

 はぁ、と聖月はため息を吐く。

 辞めていいよ、と言われた次の日に仕事があるのは妙に憂鬱だった。鬱々とした気分になのは、きっと優しい客じゃないと分かっているからだ。

 ―――だって、予定に入っていたのは…。

 

 

「久しぶり」

「こんばんは。ご指名くださり、ありがとうございます」

 その日の夜。いつも通りの悪趣味だと思うぐらいに綺麗なホテルに呼び出され、いつも通りの無表情で聖月は客を迎える。客はいつも通り遅刻してきて、ベットから立ち上がる自分を見てニヤリと笑った。

 …ああ、嫌だ―――。今までの客が優しかったし、これは堪えるって。もう一生指名なんてしなくていいのに、この人は何で指名をするんだろう―――。

 そう聖月が心の中で悪態をつく相手は、橘(たちばな)だった。この橘は聖月のお得意様だが、友人である十夜の実のお父さんなのだ。それを知らず国会議員と知った時の絶望といったらなかった。

 こんな人が国会議員なんて、世も末だ。そう思うぐらいサディストで最低最悪な客だ。

 男は定型文な聖月の言葉にくすくすと笑う。

「今日が私の最後の指名かもしれないのに、いつも通りだね」

「――――」

 ―――最後の指名?

 聖月はすぐにその言葉を理解できなかった。色々な疑問が頭に沸いた。

「あぁ、いいねぇ。君の考えていることがよく分かる。私も君の無表情を読み取れるようになってきた」

 その感慨深げな言い方にゾッとする。まるで大切な思い出みたいに語らないでほしい。

 客にそう言われたのは、2回目だった。一回目は、宗祐に。二回目は、目の前の橘なんて―――最悪だった。まるでいい思い出が最悪に上書きされたみたいだ。

「私が…ディメントを…」

 言い淀むのは、もし『辞める事』を知らなかったらという懸念だ。それを橘は見透かすように言い切った。

「君がディメントを辞める事は知ってるよ。…いいね、その顔」

「…」

 橘が目を見開いた聖月を欲望に満ちた顔で見つめる。ゾワゾワとした嫌悪が身体中を巡る。ここから逃げたい。だけれど、それは許されない行いだ。気持ち悪い、そう言ったらきっと楽なのだろう。ねばついた空気感が、部屋に流れていた。それは聖月の居心地をさらに悪くさせた。

「DVDを回収したときに言われたよ。…高い買い物だったのに残念だ」

 ―――お前には吐いて捨てる程金があるだろう。

 そう言わなかったのは、そんな聖月が偉いというより、そんな事を言う勇気がなかった。DVDを見ている時間があったら、本当の息子である十夜を気にかけて欲しかった。―――そう言ったら、十夜も怒るかな。

 それに十夜がこの間言っていた、聖月に何かあったのか?と聞いた理由が何となくわかった。きっと『この事』だったのだ。この人は自分の欲望を叶えるために、何でもするのだと思い知らされた。

「…他の客が君の人生まるごと買ったのかな?」

 いつの間にか息のかかる距離にいた橘に吐き気がする。顔に当たる生暖かい息が不愉快だった。それと同時に身体が恐怖で小刻みに震える。その声には明らかな嫉妬の怨念が混じっていたから。この顔はよく知っている。神山が、聖月を見るときよくする顔だ。

 ―――人生まるごと買った?

 言われた不可解な言葉に、頭を傾げる。

「私にも、何が何だか…分かりかねます」

「…ふふ、そうか。わかる範囲でいい。私に教えてごらん」

「……―――」

 肩に触れる橘の手にゾッとする。気持ち悪い。どうしてだろう。今までも気持ち悪かったが、今回の橘は気持ち悪さが度を越している。肩から伝わる橘の熱が脳に嫌にこびりついていく。今すぐに触った部分を消毒したい衝動に駆られる。聖月に愛の言葉のように囁く言葉が、全部嘘に聞こえて、おぞましかった。吐きそうな顔をしないようにしたが、こめかみがぴくぴくと痙攣する。

「まぁいい…今日はオールだ」

 ここで嫌だ、と叫ばなかっただけでマシだろう。それぐらい、橘の声は気持ち悪い言い方だった。

 ヘドロが喋っているんじゃないかというぐらい、気持ち悪い。欲望の匂いで聖月は今にも吐きそうだった。この人が十夜の父だなんて信じられない。

「君には最後の奉仕をして貰わなくちゃぁね」

「………」

 しゅるり…と脱がされたスーツのネクタイが、死んだように床に落ちる。聖月は心に無にする。何も感じない人形のようになる。それが、ここですぐに終わらせる手段だ。だがそんな聖月の決意と反して、身体は一向に『無』になってくれはしなかった。

 

 

 


 

 

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