アドレナリンと感覚麻酔 

第三章 第十三話

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 その言葉を放った瞬間、十夜の表情は驚いた顔をした。その表情には、様々な感情が含まれていた。だが、聖月にはそんな表情を見る余裕などなかった。

「…そう…か」

 十夜は頷くと、「もう会えないんだ?」と問う。聖月はそれに、「もう会えない予感がする」と答える。しばらく沈黙が続いた。コップに入ったメロンソーダを飲んだが、もうぬるくなり、結露の水滴で手が湿る。聖月はズボンで水を拭う。このことを十夜に言っていいか、聖月にはまだ上手く判断は出来ないが、話したいと思った。

 何て言おう、そう思考をしていると、質問が投げかけられた。

「聖月はその人に告白したい?」

「………」

 そう問われた時、どうしてかきりの顔が浮かんだ。

 ―――……君塚くんは…その人の事、好き…なんだね。

 きりの声が脳内に浮かぶ。まるでさざ波のような静かな言葉だった。あの電話で、自分が彼の事を好きだと分かった。告白なんて考えたこともなかった。ただ、ずっとお礼が言いたかった。今まで救ってくれて、偽りの優しさでも、優しくしてくれて本当に救われたのだと宗祐に言いたかっただけだ。

 十夜にゆっくりと、拙い言葉でそれを伝える。

「告白とか、…そんな事、考えたこともなかった。ずっとお礼が言いたかった。ただ一度でも会えればそれでいいんだ。ディメントから救ってくれて、偽りの優しさでも……嬉しくて、救われたんだって…言いたい」

「聖月…」

 驚いた声が十夜から発せられる。…―――おかしな気持ちなのだろうか。こんなことを十夜に話す事が、急に怖くなった。

 変な事をいってごめん、と言おうと口を開く前に十夜は言葉を紡ぐ。

「なぁ…、それだったら、お礼を言うんじゃなくて告白した方がいいんじゃねえの」

 真剣な顔でこちらを見る十夜にドキッとする。いつの間にか近くに十夜の顔があって、心臓が痛い程張りつめる。今の雰囲気と真剣な表情と相まって聖月は緊張してしまう。

「だって、もう…会えないかもしれないんだったら…後悔しない方がいい」

 十夜が言ったこの言葉には重みがあった。

 十夜は聖月よりもずいぶんと大人で、自立心が高い。そんな彼が言うと、聖月には「そうなんだろう」という思考になってくる。もし、会えたとして…ただお礼を言って帰る。それでもいいだろう。だけど、十夜の言う通り、『後悔』はしたくない。もし『そう』すれば、自分に破滅の道が訪れたとしても。

 聖月の『告白』が宗祐が警告したことを、全て無意味にする行動だとしても…―――。

 破滅への決意、そんな危うい心持ちになった聖月の雰囲気は妖しいものへ微かに変化した。それは近くにいた十夜にも仄かに感じられる昏いものだった。

「―――ッ聖月…あのさ、」

「ん?」

 小さく口角を上げる聖月は、十夜の目には大人びて見えた。言いかけた言葉を、十夜は心の中でそっと振り払う。

「ううん、何でもない。…頑張れよ」

 十夜も笑みを浮かべ、時計を見るとそろそろ次の講義に行かないと…と言った。それは二人の会話の終わりを意味していた。

「またね」

「あぁ。いい結果報告、待ってるから」

 席を立ちあがり、空になったコップを持った十夜は爽やかなものだった。立ち上がる仕草でさえ、カッコいい。ただ立ち上がるだけでも注目の的の十夜に、様々な視線が飛び交った。

「…うん」

 その時、十夜の隣にいる資格はあるのだろうか。聖月はそんな黒い思いを心に隠し持ちながら、十夜に手を振る。十夜も手を振ってくれ、また泣きそうになった。

「あぁ、俺も涙腺おじいちゃんになっちゃたなぁ」

 そんな聖月の言葉は、騒がしい食堂の声にかき消されて消えていった。

 

◆◆◆

 

 雨は嫌いだ。

 ザーザーと降りしきる雨に、水滴が当たり聖月は身震いする。レインコートを羽織っているが、やはり雨の中塀に腰かけて待っていると寒さに震える。上を見上げれば、最近何度も見ている大きなビルがそびえ立っていた。自動ドアから出てくる人に訝し気に見られるのも、もう何度目かでいい加減慣れてきた。

「ストーカーみたいだ」

 雨音でばれないだろうと、聖月は独り言を発する。

 聖月は十夜に話してから、毎日のように宗祐がいるだろう会社の前で待っていた。だが、何日待っても宗祐は出てこない。見逃したのかもしれない。だけど、会えていない。初めはカフェで待ち、閉店時間になれば会社の前に行き、近くの塀で座って待つ―――その繰り返しだった。

 社長だと言っていたし、聖月が帰ってからくるぐらいもっと遅いのかもしれないし、自分が大学が終わる時間より早く帰って行ってしまうのかもしれない。

 今日はいつもより早く大学の講義が終わり来てカフェで待っていた。だが、宗祐の姿も、秘書である別府である姿もない。そして、降りしきる雨の中今も待ってはいるが、夜21:30を回りまず会社から出てくる人も少なくなってきた。今日は雨なので皆仕事を早く切り上げているのかもしれない。

 ―――もしかして、バレたのかな?

 自分の行動がバレてしまい、避けられている。そう思った方が、まだ辻褄が合う。

 こっちが諦めるのを待っているのかも。そんな、ネガティブな事ばかり考えてしまう。

 11月の雨はあまりに、聖月の体には堪える。長時間当たっていると寒くてどうにかなりそうだ。それに、こんな日は、両親が死んでしまった日の事を思い出す。あの日、二人はこんな大雨の日に、高速道路で速度制限をオーバーしスリップしたトラックに衝突させられ車が大破し、中にいた両親は即死だった。

 運転していたトラックの運転手も即死し、誰を恨んでいいのか、もうわからない。

 もし両親があの日、生き残っていたら自分はここにはいなかっただろう。ディメントの事を知らず、一生を過ごしていたに違いない。

「はぁ…、」

 吐く息が白い。頭がぼんやりしてきた。最近夜遅くまで、ここにいるから、あまり寝れていない。

 もう帰って今日は休んだ方がいいのだろう。だが、聖月にはうまく判断が出来ない。思考が虚ろだった。雨音がうるさく、顔の肌に当たる雨が痛い。疲労によりもう顔を上げて、いちいちドアから出てくる人を確認するなんてことは出来なくなっていった。身体が熱い。こんなに当たる雨は冷たいのに、そこだけが不思議だった。

 それからどれぐらい時間が経っただろう。

 激しくパシャパシャと音が聞こえる。まるで遠くで起きた出来事のような心持ちで、その音を聞いていた。

「君塚さん?!」

 悲鳴のような声と共に身体を揺さぶられる感覚がして顔を上げる。至近距離で、身に覚えのある顔があり、思考を戻す。

「…べっぷさん」

 今にも枯れて死んでしまいそうな声を発した聖月は、その人の名前を呼ぶ。スーツ姿の彼は傘を持って、聖月を揺さぶる。

「―――別府?」

 誰かの声が聞こえる。

 それは、聖月の待ち望んでいた人であったが、もう聖月には誰なのかわからなかった。ただ別府が、その人と会話をしている事だけが分かる。雨音の方が、聖月はよく聞こえた。聖月には分からないが、二人は塀に座る聖月を囲って会話を続けていた。

「どうして彼がここにいるんだ……? おい、別府。なんでポーカーフェイスのお前がそんな『しまった』って顔をするんだ。お前、なんで彼がここにいるのか知ってるのか?」

「それは………」

「…話したくないならいい。あとでたっぷり言わせてやる。―――それより、聖月くんは大丈夫か? まさかここにずっとにいたわけじゃないだろうな」

「申し訳ございません。分かりません。ですが、身体が熱くて……揺さぶっても反応が鈍いです。もしかしたら、ずっとここに居て…熱があるのかもしれないです。早くどこか温かい場所に避難させないと…」

「あぁ。そうだな、取り敢えず急いで俺の車まで運ぼう―――っておい」

「君塚さん?!」

 もう限界だった聖月は、頭をふらりと揺らめかせ別府の体に倒れこむ。ドン、と鈍い音がその場に響いた。聖月は自分の体の支えることが出来なかったのである。自身の重力の重みにさえ耐えられないのだ。人の温かさに触れた聖月は安心し、目を瞑る。まるで天使のゆりかごのような安心感だった。

 そんな死んだような聖月に、二人の悲鳴のような聖月を呼ぶ声が響いた。

「君塚さん、君塚さんっ」

 必死に呼ぶ、綺麗な声。涙を浮かべており、声はしゃがれている。

「おい、おいっ、目を開けろ――――クソッ」

 荒々しくも、身を案じる悲し気でやるせない声。そんな声が雨音と共に耳朶に響き渡る。

 ―――死ぬなっ!

 ―――絶対に救う!

 そんな決意にも祈りにも似た声を遠くに聞きながら、聖月はぎゅっともうどこにもいかないでくれと、誰かもわからない身体にしがみついた。もう、目の前から消える、二度と会えないなんて悲しい別れの言葉聞きたくない。もうこの手を離さない。逃がしてあげられない。

 ここに通っていたときには、もう聖月はもう決意を固めていたのかもしれない。もう離ればなれになんて、なりたくない、と。それを、聖月は、今の今まで、自分一人では決断が出来ないと分からないふりをしていたのかもしれない。

 その決意にも似た抱擁はまるで子供のような、誠実で必死ながらも幼い仕草だった。ずっと背中を撫でる大きな手が、それに答えるようにそう思っているのは自分は一人じゃないと教えてくれている。それは聖月にとって安心できるもので。まるで母に、全てを任せている赤ん坊のようだった。

 やがて、聖月には声も雨音も何もかもが聞こえなくなり、完全に意識を手放した。

 

 

 


 

 

 

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