アドレナリンと感覚麻酔 

第三章 第十三話

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 頭が痛い。ガンガンと誰かが頭をトンカチで叩いているのか、叫びたくなるぐらいの痛みだった。ヒュンッ、と風を切る音が聞こえた気がして聖月は目を覚ます。初めに目に映った光景は、高い高い天井だった。その景色は自分がちっぽけな存在であると思うには十分すぎる高さだった。そして、背中に感じる心地の良い感触と、身体を包んでいる毛布の温かさに驚く。

 ぼんやりとしていると、頭のてっぺんからこめかみにかけて痛みが走る。

「―――ッ」

 痛みに目を瞑る。フラッシュバックのように脳に様々な光景が浮かんだ。自分が、会社の前で待っていたこと。大雨に打たれ、記憶がそこから途切れている。聖月は今の状況を確かめるため、辺りを見渡した。今自分が居るのは、ベットだ。だが、ただのベットではない。今までのディメントの客に連れられた高級ホテルと同等、それ以上の心地よさは、自分の家にあるものではないと分かる。

 今聖月が居たのは誰かの家の一室だった。

 寮の自室のリビングより大きい広さの部屋に置かれている家具は少ない。本棚とテーブルとベットはモノトーンで落ち着いた色になっていた。ここは、『誰かの』寝室なのだろう。そして部屋にどことなく香る『匂い』に心臓が早くなる。この、『大人の男性』の匂いは―――。だがそれはあり得ないことだと、自分の願いにも似た思考を消す。

 大の字で寝ていたらしい自分に恥ずかしくなり、上半身を起こすと何かが頭から落ちてきた。

 掴むと、その物体は少しだけ湿ったタオルだった。シーツに触ると自分の汗で濡れていて、長い時間ここに居たことが分かる。腕時計を見ると、夜中の3時を指していた。

 いまだに状況を掴めきれていない聖月は重い頭を抑える。

「……聖月くん?」

 みつき―――名前を呼ばれて聖月は思考を戻す。その声は――――。今、混乱している状況でも分かる、低い甘い声の主は。

「…羽山…さま…」

 聖月が顔を上げると、Yシャツにスラックス姿の宗祐がドアの前に存在していた。その手には透明な液体の入った硝子のコップを乗せた状態でのおぼんを持っている。

 彼を見たのはどれぐらいぶりだろう。そう考え、泣きそうになる。幻を見ているんじゃないか、と聖月は思う。雨の中で倒れて、頭がおかしくなって、自分の都合のいい妄想なのではないかという不安が聖月の傍に横たわる。

 こんな、まるで倒れた聖月を介抱しているような、聖月にとってこんなにも都合のいい優しい『状況』になっているなんて。

 だが、そんな聖月を否定するように、宗祐の手によってベットサイドテーブルにコップが置かれた。よく見なくてもそれが水であると分かる。聖月に飲ませるための、水だ、と宗祐が目で語る。

「ここは…えっと、」

「俺の部屋だ。まだ熱がある。安静にしていなさい」

 発せられたのは普段より冷たい声ずっと冷たい声。

 声が、普段の紳士的な声ではなかった。本当に、別府から聞いていた通り、こちらが素の声なのだろう。全く違う横暴さを感じる声と口調だった。

 ―――あなたに会っているときは、見たこともない程優しく紳士的で…普段の彼からは想像出来ないものだった――――

 別府の言葉が蘇り、唇を噛みしめる。本当だった。本当の彼は、多分こちらだ。それが、胸をかきむしりたいぐらい、辛かった。だけれど、嫌いになんてなれない。だって、この声は冷たい声にも聞こえたが、聖月には宗祐が心配しているのだと感じたから。

「――――っ、」

 羽山様の部屋だというこの部屋の、ベットまで貸してくれたことに泣きそうになる。テーブルに置かれたその水を見詰めながら、自分の事を恥じた。

「―――別府から全部聞いた。秘書の異変にもましてや君が俺を調べていることにも気付かなかった。こんなになるまで外で待っているなんて」

 細められた目には、自分が気付かなかったことへの謝罪が混じっていた。彼の傷ついたようなその表情を見た瞬間、冷水をかけられたような衝撃が走る。

「ごめんなさい」

 とっさに出てきたのは謝罪だった。聖月は震える声で言葉を紡ぐ。頭を項垂れ、顔を俯かせる。唇を噛んで身体がぶるりと震えた。

 勝手な行動をして、そして倒れて、ベットの上で寝かしてくれて。普通だったら無視してもいい状況なのに。

「―――どうして謝る?」

 眉を顰める彼は、いつもと違って恐ろしかった。怒っている、と分かる表情に聖月は恐怖しながらも、口を動かす。それが唯一のできる事だと思ったからだ。

「ただの男娼なのに…勝手に、調べて………ここまで押しかけて、迷惑をかけてばっかりで、俺…」

 言っているうちに、本当に、迷惑しかかけていないと分かり悲しくなる。今の聖月はあまりに小さい存在だった。宗祐が罵声を浴びせたら、きっと消えてしまうぐらいの、か弱い男の子だった。熱がまだあり、そういった弱い面がさらに強く見えるのだ。

 話すたびに小さくなる聖月に、宗祐は笑みを浮かべた。

「……君には脅したつもりだったんだがな。次に私に会ったら、酷い事をすると。案外君は大胆な行動するなぁ」

 聖月を馬鹿にしたようにくすりと笑う宗祐が新鮮だった。だけれど、そこまで心は痛まない。酷い事をする、と言われて背中がゾクリと震えた。その震えが、今の聖月には『どちら』の意味かは分かるはずもない。

 震えている聖月に、宗祐は自嘲にも見える笑みを浮かべた。その表情を聖月は初めて見た。

「散々調べて、出禁のことは本当だっただろう? まだ俺に夢見てるかもしれないけど、全部君を騙すためにやってきたことだから」

「っ」 

 冷徹な笑みを浮かべる宗祐の言葉は、聖月の今までを壊すには十分すぎた。

 騙すため―――? 本当に―――?

 会って確かめたい、そう思っていた答えが『こう』であるならば悲劇に他ならない。宗祐は決してウソを言っているように見えない表情だったから、聖月に突き付けられた『事実』という名前の『真実』の衝撃は馬鹿にならないものだった。

 本当に、蒼が言っていた通りに俺は騙されていた?

 ―――言葉を失い、呆然とした聖月に、宗祐は深く息を吐いた。

「そんな顔しなくても何もしない。まだ辛いだろうから寝なさい。寝て起きたら―――私の気が変わらないうちにここから出ていってくれ」

「――――ッ」

 それはこの間も浴びせられた拒絶の言葉だった。続けざまに言われた言葉たちに聖月の顔は歪む。それは言葉の暴力に他ならなかった。あまりにショックで、目の前がグラグラと揺れている。頭が真っ白になった。

 聖月は、―――騙されていてもいい、そう思っていた。だが、それは本当だと本人から言われれば分かっていても苦しかった。辛かった。今すぐに泣き叫び、宗祐に嘘だと言いたかった。

「君だって泣き叫んでも許されずここから逃げられない状況になりたくないだろ」

 ――――ここから早く逃げないとダメだ―――。

 そうあの夜と同じことを彼は言う。冷たい目で、横暴な口調で、『そうするぞ』と脅す。まるで、それは。そこまで言われて、聖月はやっと気づく。

「もう少し寝なさい」

 そのままこの部屋から立ち去ろうとする大きな背中に聖月の身体は動いていた。もう、身体が重いとか、辛いとか、そういうのは、全然感じなかった。もう本能がここで、もう言わないと、一生後悔すると叫んでいた。この話を終わらせた彼は、本当に、ここから聖月を追い出し、一生会ってくれないのだろう。そんな確信めいた考えが浮かんだから。

 ―――君には明るい場所が似合う。

 あの夜の言葉を思い出す。彼は本当に、そう思っているんだろう。そうじゃなけば、こんなことを言わないはずだ。

 ―――私が傍にいても、セイくんの良い未来が思い浮かばない

 そんなの嫌だ。絶対に嫌だ。そんなの、嘘だ。

「ウソでも、俺、嬉しかったッ」

 ドンッ――――。フローリングに二人の大人の男が倒れこんだ鈍い音が広い部屋に響いた。

 身体に衝撃が伝わる。硬い身体に全力でぶつかり痛いのだろうが、もう聖月には痛みなんて感じなかった。興奮してアドレナリンが出ているのかもしれない。痛覚という感覚はもう麻痺していた。予告もなく急に背後から肉体がぶつかり、宗祐は衝撃で身体が床に押し付けられ小さく呻く。

「―――」

 聖月はもう必死で、自分が宗祐に何をしているかなんてわからない。ただただ、伝えたい言葉があった。今逃したら、一生言えない言葉があった。

 宗祐に馬乗りになり、泣きながら、鼻水を垂らしながら聖月は懇願めいた心の声を叫んだ。

「も、ひどい、酷い事を、されてもいい…ッ、貴方の傍に居たいんだよおっ」

「………ッ」

 そうひしゃげた声で叫ぶ聖月の顔は、生まれてきてから人に見せた表情の中で一番感情豊かなものだった。きっとその顔を見たら聖月を知る人からは驚き声を失うぐらい『人間らしい』顔をしていた。敬語も、恥も、何もかもかなぐり捨てて、宗祐のシャツに縋りつく。まるで子供のように。その表情だけを見たら、汚く見えるぐらい、様々な感情が混ざった顔をしていた。

 今、聖月の目の前は涙で滲んで何も見えない。

 どんな顔で宗祐が聖月を見ているかもわからないまま、聖月は言葉を紡ぐ。ただ、宗祐は息をのみ、その顔を見詰める。

「だまされてたって、嫌いになれないっ、ウソでも嬉しかったっ……」

 息を呑む声が、どこか遠くに聞こえた。

 部屋には聖月がぐすぐすと鼻をすする音ぐらいしか聞こえなかった。宗祐に馬乗りになった聖月という今の状態はあまりに異様な光景だった。宗祐は、怒りもせず、痛みにも何も言わなかった。

 ―――聖月は本当に…あの優しさが…ウソでもよかった。蒼に言われた時から、騙されたんだよと言われた時から、信じられないといいながら、心の奥底でそう思っていた。

 だって聖月は宗祐が初めてセイを指名してくれ優しく声をかけてくれたあの時から。食事をとったあの時、ベットで抱きしめられたあの瞬間もずっと宗祐に救われてきた。

 聖月は確かに救われた。友人でもない、ただの客である宗祐に。友人ではないからこそ、救われてきたのかもしれない。ディメントの男娼に、食事をとるだけの彼に。ずっと、ずっと救われてきた。きっと宗祐がいなかったら、とっくに聖月の心は死に、病んで『消えた』男娼の一人になっていただろう。

 過去がどうだっていい。今、聖月が嫌いだっていい。これから、壊されたっていい。酷い目にあってもいい。ただ、あのディメントで指名してくれたあの思い出は、宗祐によって救われてきた日々だったから。DVDを取り返してくれたのは、まぎれもない彼だから。ディメントから救ってくれたのは、宗祐だったから。ただ、お礼がしたい。それだけだった。そして、欲張りを言っていいなら、ずっと傍に居たい。だって、好きだから。

「俺がディメントを卒業できたのも、羽山様があのビデオを回収してくれたおかげだし、傍にいれないなら、それがダメなら…っ、何か…お礼をさせてください……。……俺、何でもします。お願いです」

 最後は、本当の懇願だった。もう必死だった。前なんて見えないが、目を見て言い切った。

 もう、全部、言いたいことは伝えられた。もうここで彼に殺されたって、悔いはない。

「…君はホントに馬鹿だな」

 何もかも覚悟を決めた聖月に、バカにしたようなそんな言葉通りの言葉が降った。その声は、どこか優しかった。

 

 


 

 

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