アドレナリンと感覚麻酔 

第三章 第十話

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 ――――黒いあの瞳をみているとすべてを暴きたくなる。

 都内のビル街に、ある玩具会社の本社ビルはそびえ立っていた。そしてその中でも最上階の部屋には、『社長室』と掲げられた一室があった。その部屋では端正なスーツ姿の男が二人いた。それは社長とその秘書だ。

「別府」

 社長室の椅子に気高く座っている男―――羽山宗祐(はやま そうすけ)は自分の秘書の名前を呼んだ。その声は低く、脳髄を犯すほど色香のあるものだった。別府(べっぷ)は音もなく、机の前に近づいた。端正な顔立ちでメガネをかけている知的な雰囲気を持つ別府は、宗祐の忠実な僕だった。

「はい」

 ニコリともせずにこちらを見据える別府に宗祐は口を開く。

「例の調べ、どうなっている?」

 宗祐の表情は、厳しく険しいものだった。彼を映すガラスの窓は何度も磨き上げ、新品のような輝きを持っていた。若々しい顔立ちの、威厳溢れる容姿である宗祐は社員から―――いや周りの者から尊敬され、一目を置かれていた。

 圧倒的な支配者のオーラと自信のある姿は、異性を虜にする。いや、異性からではなく同性からもそう言った目で見られることがある。それは宗祐にとっては、いたって普通のことだった。子供の頃から社長の息子として注目され、期待を一身に浴びてきたのだ。そんな視線を、物ともしないのが宗祐だった。

 黒髪のオールバックで整えられた髪形と、スーツ姿の端正な宗祐の姿は芸術品のように美しかった。35歳とは思えないほどの圧倒的なエネルギーを持っていた。父親から継いだ社長としても有能で、頭の回転が速く玩具メーカーとして数々のヒット商品を打ち出してきた。

「…」

 無言で別府はファイルから書類を出し、宗祐に渡した。その表情は無表情ではあったが、雰囲気はあまり良くないものだった。別府は分かりづらい男ではあったが、有能で扱いやすい男でもある。宗祐は彼の思っていることが手に取るように分かった。

「仕事が早いな」

 ククッと笑う宗祐は、とても愉しそうだった。まるで野獣がこれからハントする獲物を選ぶような―――そんな狡猾さを秘めされていた。

 その様子を別府は面白くなそうに見つめる。

「…入れ込んでますね」

 小さく呟いた別府の言葉に、宗祐は貰った書類を見ながら口角を上げる。

「そうかもしれないな」

「…」

 宗祐が軽口を叩きニヤニヤと笑っていると、別府から冷たい視線を感じた。

「やめてくださいといっても、貴方は聞かない人だから」

 眉を顰め、別府は珍しくイラついた声をあげる。宗祐はページを捲りながら、クスクスと愉しそうに笑う。

「ちゃんと手綱を引いといてくれよ?」

「…貴方はむしろ手綱を引く人でしょう」

「それはそうだな」

 ククッと、別府の嫌味を軽く嘲け笑う宗祐が見ていた書類は別府に頼んでおいた調査資料だった。あの青年―――ディメントナンバースリーである『セイ』の身元調査の調査結果だった。別府は有能な秘書だった。細かく彼の出生が書かれている。

 彼がこのことを知ったらどう思うのだろう。

 宗祐はそんなことを考えた。だが、気になってしまったのだ。彼の暗いあの漆黒の瞳の中身を。

 宗祐は書類を目に通しながら、『セイ』―――本名『君塚聖月(きみづか みつき)』の過去を知った。それは平凡な幸せを得ることが出来た青年が、両親の事故死から変わってしまったことがありありと分かるものだった。兄の勧めで、小向の寮に入ったのが運命の狂いだった。

 最初のディメントの仕事ぶりは酷いものだったらしい。だが、ある時を境に徐々に客からの指名が増えていったという。セイの顧客はすさまじい顔ぶれだった。それと同時に、プレイ内容が『嗜虐』を売りにしているディメントのなかでもかなり過酷だった。

 鞭打ちをOKにしている蝶はまず聖月ぐらいなものだから、指名を獲得するには十分な要素だった。だが―――と、宗祐はふと考える。

 どうしてセイは耐えられるのだろうか?と。

 普通だったら、こんないたって中流家庭で優しく育った彼には耐えられないものだろう。話してみても、ナンバースリーにしてはいたって普通の青年で、異常性は見られない。日々ディメントのプレイ内容でしんどいだろうに、普通に大学に通っている。

「ミツキ…か」

 不思議だった。

 聖なる月。なんとも仰々しい名前だが、なんとなく『セイ』にしっくりくる。

 宗祐は聖月の、陰のある顔をぼんやりと思い出した。

 セイ―――いや聖月を指名し、初めて会ったとき―――宗祐はどうしてだか優しく接していた。それはもう紳士の顔で。会う前はどうやって犯してやろうかと思っていたのに、レストランの椅子に座った彼の頼りない背中を見た瞬間その気持ちはしぼんだ。

 自分の本来の荒々しさを隠し「優しく、紳士的に」接することは、会社の中でも日常生活でも長けている。案の定、聖月は宗祐を信用していた。

 聖月はいたって普通の、人見知りで無表情な青年だった。あのディメントナンバースリーには見えないほど、ただの青年だ。―――いや、ナンバースリーにいる時点でただの青年ではないのだろう。

 彼は庇護欲と、どこか征服欲を感じさせる男だった。無表情で、ぶっきら棒な顔が少し和らぐと宗祐はゾクゾクと震えるのを抑えた。

 彼と話すのはどうしてだか楽しくて、宗祐は自分らしくもなくただ話して帰ってしまっていた。ホテルに誘おうか、と思うときもあるが、聖月が一生懸命に宗祐の話を聞いているのを見ているとそんな気持ちはなくなっていく。

 初めは優しさは演技だった。だが今はどうだろう。

「……」

 徐々に無表情だと思う顔に、表情があることに気が付いて、彼は宗祐との会話を不器用ながらに楽しんでいるように見えた。

 だからだろうか。宗祐は、聖月に優しくしているのは。暇さえあれば、大金を払って食事をしているのは。身体で繋がるのが目的の男娼館で、その行為をしていないのは―――。

「彼のことを知ってどうするつもりなんですか」

 別府はメガネを触り、宗祐を一瞥する。その声は冷淡なものだった。宗祐は書類を机に置き、足を組み替える。

「……申し訳ございません。出しゃばりました」

 宗祐の表情を見て、彼は深く頭を下げる。さすがは宗祐の側近の秘書だ。顔色を変えずに、ただ誠意をもって謝っている。別府が見た宗祐の顔は、酷く冷たいものだった。彼自身自覚しているのかは分からないが、見たものを委縮させるのには十分なものだろう。

 宗祐はフッと笑うと、表情を和らげる。

「いや、いい。お前の心配もわかるからな」

 ククッと笑う宗祐の真意はどこにあるのか。秘書はただ頷き、この会社を支える社長の眉目秀麗な顔立ちを見つめる。

「…さぁて、どうするかな」

 腕を組み、何かを考える宗祐はただの人とのオーラが違った。別府はそっとその場を離れる。宗祐の雰囲気が、一人にしてくれというものだと長年の感覚でわかるのだ。

「失礼します」

 深々と綺麗にお辞儀し、スーツを翻し美しいウォーキングで別府は社長室を出ていった。宗祐は有能な秘書だな、と愉しそうに笑いながら思考を別のところへ移す。

 ――――お風呂…入らないんですか…。

 そう言った彼の顔を思い出す。冷たい、人形のような顔。無表情の顔がいつもよりもっと無機質で、宗祐は少しだけ見開き、聖月を見つめた。あの時の宗祐に浮かんだものは激情だった。一緒に入って、そのまま彼を…。

 そんな欲望がむくむくと湧き上がり、だが―――…『一緒にはいる?』と言った言葉に茶化すものを入れて宗祐は聖月を見た。思わず笑みを浮かべるのを見られないように、口元を抑えて。

 明らかに混乱した『セイ』に、宗祐は冗談だよと笑ってシャワーを浴びた。宗祐はシャワーの水を浴びながら、自分の行動の不可解さに首をひねった。あのまま無理にでも風呂場に連れ込めばよかったのに。だけどしなかった。

 はっきり言って、聖月の隙の多さはほかの男娼より多い。自分が性の対象として見られている自覚が全くないようにも見える。警戒心が強いように見えて、押さばそのまま陥落しそうな雰囲気もあった。

 どうして自分は彼に手を出せずにいるんだろう。今日の彼の様子が、いつもより元気がないから? どこか苦しそうに生きているから?

 苦しそうに生きている人間だって、この目でいくつも見てきた。この立場ならなおさらだ。なのに、なんで―――。

 ―――友達を…傷つけてしまって。

 そのあとのベットの上の彼の告白に、宗祐は思う。ああ、そうか―――と。一瞬顔を翳る彼の無表情な顔から目が離せない。無表情に見えたこの顔も、それに気づけば誰よりも雄弁に顔に出ていた。

 宗祐が優しく慰めると、彼はしゃくりを上げて泣きじゃくった。子供のような彼の泣き顔に、ありえないほど興奮する。だが、宗祐はそんな表情をおくびにも出さなかった。優しい慈愛に満ちた紳士の顔だっただろう。実際宗祐の顔は、優しかった。

 初めて語ったセイの過去。そしてその勢いのままバスローブで絡めた脚は宗祐の甘い悪戯だった。今まで散々私を煽ってきた罰なんだよ―――と。だけれど、表面ではただの慰めに見えるだろう。聖月はまんまとその罠に落ちた。宗祐が脚にわざと擦りつけた彼の性器は硬くなっていた。

 嫌がる彼を無視し、宗祐が触ると聖月はまるで他人に性器を触れられるのが初めてのような反応をした。ディメントナンバースリーだというのに。それがとても宗祐の興奮をかきたてる。あのDVDで嫌がっていた、無表情のセイはいない。

 腕にしがみつき精を吐き出す聖月はいじらしかった。気持ちよかった?と問うと、頷く聖月が可愛くて。

「まだ仕事が少し残ってるのにな…」

 こんな昂る気持ちになってしまった。宗祐は熱い息を吐き出して、自分のよくわからない気持ちを整理しようとする。宗祐の瞳には、身元調査の書類の無表情な聖月の写真が写っていたのだった。

 


 

 

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