夕飯中、俺は何となく身に入らないでいた。ご飯の味なんてよく分からない。先輩と手合わせすると思うと、胸がドキドキとした。ドキドキと、体の内側から熱いものが沸き上がっていく。身体がフワフワとした感覚に包まれながら、22時前に俺はコッソリとコウヘイさんの家を抜け出した。
玄関前に出ると、先輩が待っているのが見えた。俺は慌てて先輩に駆け寄った。
「ショウゴ先輩!」
待ちましたか、と聞くと先輩は首を振る。
「今来たところだから、別に大丈夫だよ。それよりこっちに来てくれないか」
「はいっ」
ショウゴ先輩に言われるがまま、歩き始めた背中を俺は追いかけた。先輩と俺は10分ほどしばらく歩いていたが、やがて立ち止まった。先輩が立ち止まった場所は、開けた砂浜だった。夜の砂浜は幻想的で、静かに波の音が響き渡っていた。
先輩は静かに構えの姿勢をとった。俺もそれに倣い構えた。
それから俺たちは静かにゴングを鳴らした。
手合わせした先輩はやっぱり強かった。準備運動はしてきたけれど、やっぱりそれだけじゃ足りなかった。先輩とやりあうためにはそれだけでは対抗出来ない。俺は空手を基準とした戦いを仕掛けたが、先輩は小さい頃に総合格闘技を習っていたらしく、何でもありの戦いを仕掛けてきた。
手合わせ、練習…そんなの関係がないと言わんばかりの容赦のない切れのあるキック、力の乗った最高のパンチ、相手をノックダウンさせるための締め技を繰り出してくる。俺もそんな先輩に対抗としようと拳を振り上げたが、躱されることが多かった。
実力は明白だった。完全に先輩の方が俺より≪上≫だった。砂浜の上で手合わせすることはかなり難しい事だったが、先輩は砂の上だと感じさせない足さばきで俺を確実に追い詰める。
だが、先輩はとても楽しそうに俺と手合わせをしてくれていた。
本当に戦いに≪飢えていた≫のだろう。獣のような目で俺を追い詰める。俺は身体が高揚しているのを感じていた。戦いっていうのは、やっぱり男の本能が飢えているものかもしれない。
それからも先輩の優勢が続いたが、俺にもチャンスがやって来た。
先輩の足がもつれ、一瞬だったが身体がぶれたのだ。俺はそれを見逃さず思い切り足を蹴り上げた。
「ハァッ!」
ドッ、と鈍い音がして俺の蹴りが先輩の太腿に当たった。先輩はよろめき、俺は『やった!』と思った。やっと先輩に当てることができた、よろめくまで強く当てられた、と。だが、そんなまぐれの一発が先輩の火を付ける。
俺がそのまま次の動きをしようとしたした瞬間だった。
「やっぱりお前は最高だよ有人ッ」
「うおっ」
先輩が足を蹴り上げた瞬間、大量の砂も舞い上がり目を瞑る。俺は驚き叫び、体をよろめかせた。絶対に今の砂はわざとだった。先輩の地形まで生かす戦術に俺は素直にすごいと思った。先輩はそんな俺の身体の隙を見逃すほど甘くはなかった。
「――――――ッ!」
体に衝撃が走る。先輩が俺をうつ伏せにして、馬乗りになりがっしりと捕まれてしまったのだ。
「さっきのはいい蹴りだったなぁ…。…効いたよ。だけど、あそこでもう一発やらなきゃダメだろ? こうやって敵に反撃されちまうからなぁ…っ」
「ぐっ…う、い、いた…ッ」
先輩の容赦のない首へのホールド技に俺は必死に降参の拳を叩く。
だが、先輩は興奮しているのか、さらに首を絞めてくる。
…息が出来ない…し、死ぬ…ッ!!!!
俺が本気で死を覚悟した瞬間だった。
「何やってんだよっ」
「ぶっ」
突然の見知った声と衝撃が走ったと同時に首の痛みが緩められ、俺は咳を繰り返す。し、死ぬかと思った…!
見上げるとそこには仁王立ちの陽人が存在していた。陽人の顔は般若のように恐ろしい形相をしている。この顔はどこかで見たことがある。そうだ、俺が襲われた時と同じ顔だ。俺はどうしているはずのない陽人がここにいるのか分からず、目をぱちくりとさせる。
「うわっ、ぺっ、何だよ急に」
先輩は陽人に当てられた砂を口から吐き出しつつ、悪態を吐いた。
「それはこっちのセリフだよ、有人を殺す気か!!」
陽人は先輩に怒号を浴びせた。ため口で、かなり失礼な言い方で。
「いや〜、ごめんごめん。つい熱くなっちゃって〜」
先輩はそんな陽人の怒りを物ともせず、悪気がなさそうに頭をかいた。先程のホールドは何だったんだという軽さでビックリする。
「おい、何ぼさっとしてんだよっこっちに来い!」
力強く引っ張られ、俺は無理やり立ち上がらせられてしまった。離れようと手を振り回したが、さらに強く握られる。痛みが走り、俺は身をよじらせる。
「は、はあ?? 急に、何だよ、いてえよ! おい離せって!!!」
「うるせぇっ、バカっ」
困惑し、暴れる俺に陽人は頭を叩かれた。涙が出るぐらい痛い。
「いでっ」
俺が頭を撫でている間に、陽人の足はずんずんと先に進んでいく。俺はなすすべもなく陽人の後に着いていくことになった。
「うう〜〜〜〜ショウゴ先輩〜〜〜」
俺は段々と小さくなる先輩に助けをもらおうと腕を伸ばしたが、陽人にさらに頭を殴られ手を下げた。先輩は小さく手を振っているように見えた。た、助けてくれないのかよ?!
俺は無言で手を引っ張る陽人に連れられて、ずいぶんと歩いた。近くの公園まで連れられ、やっと陽人は立ち止った。夜の公園には誰もいなく、俺たちしかいない。遊具も少ない小さな公園の真ん中で、陽人は俺を睨みつけて言った。
「お前、何されてたんだよ」
「…え?」
怒気に満ちた声に俺は困惑した。―――怖い。先程までの高揚感がなかったみたいに、冷たい悪寒が身体に流れた。見たこともないような顔で、陽人が俺を睨みつける。背中に嫌な汗が流れた。
「アイツに何されたって聞いてんだよッ」
「…っ」
俺はあまりの迫力に息を呑む。ビリビリと電撃が走ったと錯覚する程の、強い叫び声だった。陽人に掴まれた肩が痛い。俺はどうしてこんなに陽人が怒っているのか分からなかった。それに、悲しそうな顔をするのか、俺は馬鹿だから全然分からない。
困惑した俺は小さな声で、本当の事を話した。
「…、手合わせ…」
「手合わせえ? あんな殺されそうな手合わせがあるかよっ」
「っ」
本当の事を言ったのにすぐに否定されてしまう。
俺は「嘘じゃない」と震える声で言い切った。陽人は俺の眼を見て、顔を近づける。掴まれた肩がギリギリと音を立った。かなり痛かったが、痛いと言える雰囲気ではなかった。
「アイツに近づくな」
アイツ―――きっとショウゴ先輩の事だろう。俺は陽人にそんな事を言われて我慢ならなかった。大きな口を開けて反論する。
「はあ?! 何でだよ、何で…そんな事陽人に言われなきゃなんねえんだよっ」
俺の言葉が発せられた瞬間、どこかでパキンと音がした。
「…………。……………………」
陽人は黙った。そして随分と長い間陽人は顔を俯かせて、震えていた。そんな陽人の様子を見つめることしか出来ない。こんなことは初めてでなんと声をかければ正解なのか知らなかった。
混乱の中にいたが、突然目の前が暗くなる。そして唇に衝撃が走る。かさついた何かが、俺のかさついた唇に触れた。そして痛みが走る。ガリッ…、と音がしたのを俺は確かに聞いた。
「ッ〜〜〜〜〜?!」
俺は走った痛みに目を剥いた。
目の前で陽人が俺の唇についた血を舌で舐めとった姿がそこにはあった。俺は目の前の光景が信じられなかった。信じれない俺にそんな倒錯的な光景がスローモーションで何度も脳内で繰り返させる。
「………お前は俺の≪幼馴染≫だからだろうが…」
混乱した俺に、陽人はそう言った。
俺は馬鹿だけど流石に理解出来た。陽人が幼馴染だからってキスするのはおかしいって。俺の唇を噛み、舐めとって至極当然のように笑うのはおかしいよ。そう言いたいのに、俺は何にも言えずにただただ棒立ちになってしまった。