「てかさ、お前この前の期末で赤点取ってなかったっけ」
「あ、」
幼馴染の言葉で、俺は口をあんぐりと開けた。完全に、忘れていた。そして次に出てきたのは大声の「ああああ!」で、その場にいたクラスの皆に振り向かれたのだった―――。
「なーんで、赤点の事忘れてるんだよ」
「忘れちまったんだからしょうがないだろ」
「出たー、開き直り」
「うるせえっ」
俺は幼馴染の小言に言い返しながら、自室の机に向かっていた。隣にいる陽人は、どこからか持ってきた眼鏡をかけている。カッコいいから眼鏡が似合うのが憎い。数字の羅列と格闘していた俺はため息を吐いた。
井口から誘われた海の家のバイトをすることになったが、俺にはそれをするために母親から課題が出された。
≪赤点の補習をちゃんと受けること≫、≪補習のテストは前回よりも全教科20点以上上げること≫。これをクリアしないと、海の家のバイトが出来ない。いつもだったら赤点が出た時点で、むしろ出る前からバイトなんて問答無用でダメだったので、それを防げたのは陽人の説得のお陰だろう。
陽人の説得能力は異様に高く、何とあの頑固な母さんが「まあ、陽人くんがそう言うなら…」と許しが出た。その時の『俺様に感謝しろよ』というドヤ顔はムカついたが、素直に感謝している。
「おい、ぼーっとす、ん、なっ」
「いってえ!」
バシッと頭を教科書で叩かれ、俺は痛みを叫ぶ。感情のまま睨みつけると暴言が飛んできた。
「お前古文以外ボロクソだったんだからこんなんで音を上げてたらバイトなんて一生できねえぞ」
厳しい幼馴染の言葉に、胸を抑える。
「…わかってるよ」
俺は、ハッキリ言って『馬鹿』だ。馬鹿高校で名高い高校の中でも中の下以下なので、偏差値はお察しの通りだ。馬鹿中の馬鹿ってことだ。テスト勉強もしてはいたが、分からないことがあると何が分からないのか分からないので、お手上げ状態だった。二次関数とか、因数分解とか、図形とか、さっぱり分からない。
今俺は陽人に補習に向けて学校帰りに家に来てもらって俺の部屋で勉強を教えてもらっている。陽人は頭がいいので、赤点なんて一個も取っていない。勉強を教えてもらうのはありがたいが、陽人の授業はかなりスパルタだ。俺が幼馴染ってことで、間違えでもすれば叩かれたりつねられたりかなり容赦ない。
俺が項垂れると、陽人は肩を引き寄せた。思わぬ行動にドキッとする。人の温もりが肌に伝わる。
「お前暗記出来んだから、数式も覚えればいいだろうが」
滅多にない励ましの言葉に、俺はウッとなる。それは分かってはいるが―――…。
「…それが出来ても、それを使って解けねえんだもん」
「はあ? ホント馬鹿だなお前」
「ッ」
俺が思わずくしゃりと顔を歪ませた瞬間、陽人の顔が息のかかる距離にいた。
「じゃあ、慣れるまでやるしかねえだろ」
「…っ、あ、ああ、頑張る…」
ニカッと笑われ、俺は目をぎゅっと瞑る。
口は悪いけど、基本的にいいヤツなんだよな―――。
俺は近い距離にいる陽人を感じながら、頭をフル回転して、幼馴染の授業を聞いていた。陽人の教え方は頭がいいからか、元からそういう才能があったからか、内容が俺の中にちゃんと入っていく。こんなことは初めてで俺は感動しながら、シャーペンを動かしていた。
それからしばらくしてからの休憩時間で、ふいに陽人が口を開ける。
「井口と仲良くなったんだ?」
「…まあな」
「へー」
興味なさそうな声で言われ、ムッとなる。男の顔を見ると、目を細め何かを言いたげな表情だった。俺は思わず睨みつつ聞いてしまう。
「…なんだよ」
「いや、何でも。じゃあ、そろそろ再開するか」
「…押忍」
俺は拳を作り気合を入れた。結局その後、普通に勉強会が始まったので、陽人の不思議な質問の真意は確かめることはなく終わった。きっと彼には珍しいと思われているのだろう。俺が人と仲良くしているなんて滅多になかったから。
カチカチカチ…、時計の音とシャーペンを動かす音が響く部屋。俺は陽人が持ってきてくれたテスト用プリントと必死に睨めっこしていた。
「おい、」
ふいに顔に手を伸ばされ俺は目を丸くする。
「ほらここ…」
付いてる、と言われて目尻に触れられ「睫毛か」と呟かれる。陽人はすました顔でふっ…と息を吹きかけ、俺の睫毛を飛ばした。尖らせた唇に、何故か目を奪われる。ぼんやりとしていたら、俺を嘲るように陽人はクスリと笑った。
「マジお前こんな問題解けないとか………マジでアホすぎ」
苦戦していた因数分解の問題を指で刺され、俺は頭に血が上った。
因数分解は、超絶難しい問題だろ――ッ!
「なんだと?! うわ、ちょっと何すんだッ」
俺が反論した瞬間。ドンッ―――身体の衝撃と共に大きな音を立てて俺はその場に倒れこんだ。前触れもなく何故か俺は陽人に押し倒される形になっていた。困惑している俺の顔に近づく甘い顔があった。
陽人のこんな顔は初めて見た。今まで見たことがない程真面目で、真剣な顔で、心臓が早くなる。二人にはいつもとどこか違う雰囲気が流れていた。
「…アホだからちゃんとやんないと伝わんないかなって」
耳元で囁かれながら俺はフローリングの上で手首を抑えられ、陽人に足を絡まわせられる。陽人は目を細め俺の事をジッと見ていた。何故かそれは足を摺り寄せたくなるムズムズするような表情で、俺は自分の変化に戸惑った。
ふいに近かった顔をさらに近づけられ、陽人のそんな奇妙な行動に俺はさらに首を捻る。
「はあああ? ってか、何なの? 急にプロレスごっこでもしたくなった?」
「………」
そう思うままに言った俺を何故か陽人は地球外生命体を見る目つきでマジマジと見てわざとらしく、はあ…、とため息を吐かれて俺は瞬きを繰り返す。
え?なんで?なんでそんなに、馬鹿にしてる顔してるわけ?!
「……まあ、とりあえず勉強…すっかあ」
陽人はあっさりと掴んでいた手首を離し、まるで何もなかったように身体を引き離す。スムーズ過ぎて、俺はイリュージョンを見ているようだった。急に軽くなった身体に、俺は身体を起き上がらせて混乱している頭を押さえる。
「はあぁ?」
「ほら、続きやれよ」
今テストの邪魔したのはお前だろーが!
俺は思わず叫びそうになったが、大人で知的な男になるためグッと堪える。そんな自分を俺は褒めたたえたい。
意味不明な行動に、俺は頭の中がはてなマークだらけになる。そんな俺を置いて陽人は教科書に目線を戻した。こうなるときっと何も教えてくれはしないのだという事が分かっていたので、俺は悶々とした気持ちを抱えながらヤツの隣に座りなおした。