◆◆◆
それから佐藤は兎田と妙な空気のまま会社に戻った。仕事が終わってから一緒に飲もうと言われたが、佐藤は断わった。何だか兎田と飲むのは気まずかったからだ。
義孝に『恋』をしていた自分。だがもうそれは叶わない。もう彼には恋人がいるし、佐藤はそんな2人を邪魔する事は出来ない。月村に奪えばいいと言われたが、そんな事考えたこともなかった。仲良さそうに歩く2人は佐藤の割り込む隙間はない。
佐藤はグチャグチャになった心を有耶無耶にするためその夜浴びるように酒を飲んでそのまま寝た―――。
朝。
起きたら12時で焦ったが今日は祝日という事を思い出す。
朝食―――もう昼飯だが、自分で作るのも面倒くさいと適当な服を着て街に出ることにした。駅前のカフェで軽く食事をしようと思った。歩いて10分ほどで駅のカフェに着き、佐藤は窓際のテーブル席に座る。ここで行きかう人々を見るのが好きだった。
楽しそうに笑う人、スマホで通話している人、急いで駅に向かう人―――。
頼んだコーヒーと、サンドウィッチを食べながらぼんやりと外を見ていると肩を叩かれた。
「さ、さとう、っくん」
「こばや…しさん?」
息を切らしているのは会社の同僚で、元彼女である小林だった。ふわりと揺れる茶髪の髪が綺麗で、赤く色づく頬は可愛らしい。
「どうしたの? そんなに息を切らして…。あ、ご飯早く食べたかった?」
佐藤の問いかけに、小林は目を丸くしている。そしてため息を吐いた。
「佐藤くんが見えたから…走って来たんだよ。あの、同じテーブル座っていい?」
「え? あぁ、うん。どうぞ」
断わる理由はない。佐藤が頷くと小林はほっとし、微笑んだ。その笑みはとても嬉しそうで、ドキッとする。
「荷物見とくから注文してくれば?」
「うん。ありがとう。行ってくる」
彼女を見送り、スラリとした背中を見て『どうしたものかな』と思う。元彼女ということもあり、佐藤としては少々気まずかった。兎田が言っていた彼女が泣いていたという話も気になった。そうこうしている内に、小林がトレイを持って戻ってきた。トレイにはオレンジジュースと、佐藤と同じサンドウィッチが乗っている。
「それ、美味しいよね」
「うん。佐藤くんが食べてるの見ていいなって思って」
「そっか」
小林も席に座り、サンドウィッチを食べ始めた。すると彼女は美味しそうに頬を緩めた。
「あ、美味しい!」
「だよね。卵サンドが最高でさ」
「そうなんだ」
しばらく無言で食べていたが、小林が思い出したように言った。
「そう言えば、売上成績3位おめでとう!」
「あっ、うん。有難う」
佐藤ははにかみつつ頷いた。
「3位は新記録じゃない? 1位はいつも通り兎田さんだよね」
「うん。俺にはちょっとあの人に勝てそうにないな〜」
あはは、と佐藤が笑っていると、小林がじっと顔を見詰めてくる。
「な。何?」
「あ、あの。前みたいに…2人きりの時は…弦ちゃんって呼んでいい…?」
「えっ?」
久しぶりに聞いたその呼び名に、佐藤は一瞬思考が停止する。弦ちゃん―――付き合っていた当時、彼女から呼ばれていた下の名前。小林の顔は真っ赤になっており、勇気を出して言ったことが伝わってくる。
「なんかた、他人行儀って感じがして。わ、私の事も前みたいにゆーちゃんって呼んで欲しいなって…」
「―――」
ゆーちゃん、は確かにそう佐藤は呼んでいた。彼女の下の名前がゆり香(ゆりか)だからだ。彼女らしい綺麗な名前だと思う。彼女の必死な表情を見て、佐藤は断われるはずもなかった。
「うん。2人きりの時はゆーちゃんって呼ぶね」
「―――っ! 有難う、弦ちゃん!」
嬉しそうな表情をする小林に、胸が締め付けられる。この顔は思わずほだされそうになる。綺麗な顔立ちな小林だが、笑うと花のように可愛らしい。
「な。なんか、家族にしか弦って呼ばれないから新鮮だな」
「そ、そうなんだ」
「うん」
何だか妙な雰囲気が流れる。
―――あれ、話す話題間違えた?
「あの―――」
小林が何か言葉を紡ごうとした瞬間だった。
「よぉ、こんな所で何してんのさとぉ」
「うわッ」
肩に伝わる衝撃。そして耳朶に響く、この一度聞いたら忘れられない話し方は―――。
「つ、月村!?」
「あはは、ビックリしてる〜。元気ィ?」
ニコニコとした笑みを浮かべているのは月村だった。彼はスタイルが際立つような黒いコートを着て、佐藤たちのテーブルの前に立っていた。佐藤の目の前に座っている小林は突然の来訪者に驚いた顔をしている。月村の顔を凝視する彼女の顔は赤く染まっており、きっと月村の美貌に見惚れているのだろう。
「あれ? 見たことない女性がいるぅ。あ、邪魔したかな? あ、俺、こういうものでーす」
「あ…は、はい…ど。どうも…初めまして…」
月村はマジシャンのようにどこからか出した名刺を小林に渡している。小林は名刺と月村を交互に見ている。
「つきむら…せいご、さん?」
「正解。あ、佐藤とはダチでーす」
「ちゅ、中学のクラスメイトだったんだ。あ、月村、この女性は小林さん。会社の同僚なんだ」
月村の説明に佐藤は付け足す。小林は『本当に?』という顔をしている。あまりに月村が美形で、モデルのようで、話し方も浮世離れしているからだろう。
「あ、そうなんだぁ。下の名前は?」
「えっ、ゆ、ゆり香…です」
「ふぅん。宜しくね、ゆり香さん」
「―――」
―――何だこの女たらし?!
初対面の小林に対してこの慣れなれしさ、下の名前呼び。案の定小林は顔を真っ赤にしている。月村はそんな小林を特にフォローせずに問う。
「ねえ。俺も一緒の席座っていい?」
「俺はいいけど…」
ちらりと小林を見ると、彼女はハッとした。
「あ、はい! ど、どうぞ!」
「あぁ、良かったぁ。じゃあ。さとー、隣座るね〜」
「あ、どぞ…」
―――何これ?
妙にニコニコしている月村、顔が赤い小林、そして佐藤という不思議な面子になってしまった。月村は買っていたホットのドリンクを飲んでいる。
「いやぁ、偶然だね。2人で約束してた?」
月村の問いかけに佐藤は答える。
「いや、俺たちも偶然だったんだ。遅めのご飯食べてたら小林さんが話しかけてきてくれて」
「へ〜。そうなんだ〜」
月村はニコニコと笑っている。
佐藤は少し違和感があった。確かにいつも笑っている月村だが、今日はいつも以上に笑っている。もしかしたら小林が居るので、彼女を怖がらせないように笑っているのかもしれない。
「ゆり香さん、凄く綺麗な人だなぁ。スタイルもいいし、男はほっとかないタイプだ」
「―――あ、あはは、有難うございます」
小林は面と向かって『綺麗』と言われて、恥ずかしそうに顔を俯かせた。月村は目を細める。
「ミクルに言ったら嫉妬するなぁ、どうする? さとぉ、アイツに言っちゃおうか?」
「み、ミクルさんは関係ないだろ!」
突然ミクルの事を出されて、佐藤は顔を真っ赤にする。
「みくる…?」
小林は聞き慣れない言葉に首を傾げている。
「あぁ。すみません、俺が前に佐藤に紹介した女ですよ。アイツすっごく佐藤の事気に入っていて…。あ、でも佐藤はゆり香さんの方が好みか? ミクル、線が細くてゆり香さんみたいにナイスバディじゃないし…」
「お、おい! 月村!」
「―――」
小林は月村の言葉に言葉を失っている。これはミクルにも小林にもセクハラにとれる発言だ。しかし、小林は佐藤とは違う言葉に反応していた。
「みくる…女性…気に入って…」
「そうなんですよ〜。凄く佐藤の事が好きみたいで。コイツのためなら何でもするって感じ」
「―――仲…いいんだ?」
小林が佐藤をじっと見つめて問う。佐藤はこの彼女の目が苦手だった。この雄弁な目を見ていると、心がムズムズしてしまう。
「あ、たまにメッセージ来るぐらいで…その、」
「ゆり香さんは、アイツみたいにコイツの奴隷になれるの?」
「ッ?!」
月村のへばりついた笑みから言われた言葉に、佐藤は度肝を抜かれる。小林も驚いた顔で月村を見ていた。そしてやっと佐藤は気付く。今、目の前の月村のこの笑みは―――きっと『作り笑い』だと。この人は―――ずっと、2人の前で作り笑いをしていたのだ、と。